第8話

 しばらくして、美沙は私に顔を向けた。弱々しく微笑む。


「ごめんなさい。せっかくのデートなのに、こんな話をしちゃって……」

「別に問題ないわ。むしろ知れて良かった」

「え」

「私にとって美沙はよくわからない存在だった。でも今、初めて本物の美沙に出会えた気がする」

「……ちょっと恥ずかしい台詞ですね」

「私はそうは思わない」


 美沙が顔を伏せる。照れているのかもしれない。

 後輩は小さな声を発した。


「恋愛感情がいかに信用ならないもので人を傷つけるか――それを伝えるため、もみじにこの話をしました。でも、彼女は『そう』と言っただけで、特に思うところはなかったみたいです。変わらず人前で恋愛の素晴らしさを語っています」


 価値観が違いすぎると会話は成り立たないものらしいですね、と苦笑しながら言う。 


「せんぱいの一番最初の疑問に答えます。姉の絵で釣って、一緒にいることを強要したのは、告白されたからでした」


 美沙は顔を上げて言った。ようやく話の核心にきたらしい。


「告白してきた子の名前は伏せますが、その子、思い込みが激しくて、わたしがいくら断っても『照れているんでしょ、素直になってよ』『相思相愛なのに付き合わないのはおかしいわ』と言ってきて辟易としていたところだったんです。『付き合ってくれなかったら死んでやる』とまで言われ、実際にリストカットの痕まで見せられました。A子の件がありましたから、本当に死なれるかもしれない。わたしはそう思い、怖くなりました。流石に自分のせいで人が死ぬのは目覚めが悪すぎますからね。そんな時、姉の同人誌の販売を手伝っていたら、姫子せんぱいがやってきて、ひょっとしたらこれは使えるかもしれないぞ、と思ったんです。メモを渡して、交渉して、今に至りました。せんぱいと付き合っているように見せることができれば、その子に諦めてもらえるんじゃないかと思ったんですよ。せんぱいは全校生徒憧れの存在ですからね。失礼な言い方になりますけど、その子が姫子せんぱいに太刀打ちできるところは何もありませんでしたから」


 美沙はこちらを見て、少しだけ頬を緩めた。


「思惑は大成功。その子から『もういい。勝手にイチャイチャしてれば』と絶縁宣言をもらえました。五日前のことです」

「なぜそれを隠していたの?」

「……理由を話して『恋人のふりをしてください』ってお願いしたら、断られるんじゃないかと思って。だから黙っていたんです。目的が達成してからも黙っていたのは、一ヶ月の契約が終わってなかったからです。できれば、最後まで黙ったままで関係を終えようと思っていました。そんなことのために私を使ったのか、と怒られそうでしたから」

「怒らないわ。絵が手に入れば何でもいいと思っているもの」

「それはよかったです」


 美沙が安堵の溜息をつく。

 くだらない。そう腹の中で毒づいた。

 私の中で美沙という後輩の存在が急速に萎んでいくのを感じた。彼女に対して脅威を感じ、嫌っていた自分が馬鹿みたいに思えてくる。

 美沙は取るに足らない存在だった。


「いろいろとご迷惑をおかけしてすみませんでした」


 改めて頭を下げてくる。


「絵は必ず姉に描かせます。わたし達の関係は今日限りで終わりにしましょう」

「そうする必要はないでしょ」

「え」


 美沙がこちらを見て、目を丸くする。


「わざわざ関係を断ち切る必要はないと言っているの。例の女の子が、私達が別れたと思ってまたあなたに執着するかもしれない。高校にいる間は、たまにこうして会ってあげてもいいわ。毎日は無理だけどね」


 眉を顰める。


「……せんぱい、変なものでも食べましたか?」

「本音よ。あなたと一緒にいるのは、私にもメリットがあるから」

「メリット?」

「後輩に優しくすることで周囲からの評判を上げることができる。それに、あなたと仲良くしておけば、はやてマンとの繋がりを持ち続けられるでしょ。私にとっては、良いことばかりよ」


 冗談めかして言うと、美沙は苦笑した。


「自分のことばかりですね」

「あなたにとっても悪い条件ではないはずよ。美沙は私と一緒にいることで、面倒な子の付きまといに今後恐怖することはなくなる。もしもここでいきなり関係を断ったら、また付きまとわれるかもしれないし、また別の子から告白されて面倒なことになるかもしれないわ。お互いの考えをすべて曝け出せた今なら、私達は本当の関係を築くことができるんじゃないかしら」

「本当の関係?」

「ウィンウィンの関係というやつね」


 意外な提案をされたからか、美沙は困惑しているようだった。しかし、表情を見ればわかる。心が揺さぶられている。

 対等ね……。心の中でせせら笑った。対等のわけがない。しょせんこの後輩は、私の願望を成就するためのツールでしかないのだ。

 決心がついたのだろう。美沙は私の方を向き、にっこりと微笑んだ。


「いろいろと考慮してくれてありがとうございます!」


 これで目的に一歩近づけた。

 どういう言葉を繰り出せば、この後輩をさらに懐柔することができるだろう。いや待て。ここで焦る必要はない。まだまだ時間はあるのだから。


「でも、ごめんなさい」


 思考が断ち切られる。美沙が、いつもの可愛らしい笑みを浮かべたまま言った。


「申し訳ないんですけど、わたしにとってせんぱいって、そんなに重要な存在ではないんですよ。だからせんぱいの提案はお断りさせていただきます」


 喉が震えた。一瞬、何を言われているのか分からなかった。


「当初の目的はすでに達成されています。後腐れなく別れる流れだと思ってたんですけどね……。せんぱい、欲張りすぎですよ」

「ど、どういう意味?」

「対等な関係って言いましたけど、もうわたしには、そんなにメリットはないんですよ。メリットがあるのはせんぱいだけです。わたしとの交流を続ければ、いずれ絵をたくさん描いてもらえるかもしれないですからね」

「確かにそれはあるわ。でも」

「いいですよ、もう。わかってますから」


 椅子から立ち上がった。見下ろされる。笑みが消えていた。


「せんぱいはわたしを良いように使おうとしています。わたしはわたしで、せんぱいを良いように使いました。だから責める立場にはありません。でも、わたしの場合はちゃんとそれ相応のメリットを提示しましたよね」


 心底どうでもよさそうだった。玩具に興味を失くした子供のように、冷めた顔をしている。先ほどまでの後輩とは別人みたいだった。


「せんぱいはわたしの同類で、他人のことをどうでもいいと思っている人だと確信できたから、あんな提案をしたんですよ。目的が達成したら後腐れなく関係を断ち切れるだろうと思って――。でも、見当違いをしていたみたいですね。せんぱいは思いのほか強欲でした」

「随分な言いようね……」


 流石にかちんときて言う。


「確かに、ちょっと酷い言い方をしてしまいましたね。すみません。でも、せんぱい?」


 美沙は再び微笑んだ。しかし目は笑っていなかった。どす黒い瞳が私を凝視する。


「A子の話、聞いてましたよね? A子は対等な関係を結んだと思い込まされ、裏切られ、死にました。せんぱいのやろうとしていることって、A子を騙した連中と同じじゃないですか?」


 言い返そうとしたが、美沙は遮るように言った。


「こちらにメリットがあるように思わせ、対等な関係を結ぶと思わせ、操ろうとした。わたしのことなんて何一つ考えていないのに――。ちなみにわたしは、せんぱいに対してフェアでした。嘘はついていませんからね」


 両手を合わせ、「結論!」と陽気な声で言った。


「今月末あたりにせんぱいのところに絵はお届けします。そこで関係を終わらせましょう。突然離れたら、周囲からはいろいろと噂されるかもしれませんが、ま、それくらいのデメリットは承知の上だったと思うので、割り切っていただく他ありませんね。わたしもそうするので」


 それではまた学校で! 

 美沙は敬礼のポーズを取り、踵を返すと公園を後にした。

 私はベンチから立ち上がった。見渡す限り、公園にはたくさんの人々がいた。子供の笑い声が耳朶を打つ。

 足を動かした。

 人混みを避け、公衆トイレに入る。悪臭を我慢しながら奥に進む。蜘蛛の巣を避け、個室に入り、ドアを閉め、内側からドアを強めに蹴った。二度、三度、四度、五度――。繰り返し蹴ってから、声にならない呻きを上げる。 

 ぐつぐつと腹の中で煮えたぎるものを落ち着かせるのに、かなりの時間を要した。

 これほどまでに人を嫌いになるのは初めてだった。

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