閑話 帝国軍総帥と皇帝陛下
昼間、キリリとした姿を見せていた皇妃様が今――、僕の目の前でうとうとと船を漕いでいた。
「皇妃様――、お酒、弱かったんだね……」
僕の名前はノルン。
オルテニア帝国皇帝の従兄弟であり、帝国軍総帥なんてやっている。
僕個人としては、気楽な風来坊お兄さんでいたいんだけどね。
――皇帝の結婚式のため、北国から帝都に戻ってきたその日。
主君に挨拶をし、再会と労いを兼ねて酒でも酌み交わそうと言う話になり、そこに皇妃様も同席することになったのだが――。
「いやぁ……。軍部の話であんなにバリバリに仕事できるのを見た後、こんなに酔って隙だらけな姿を見ちゃうと、流石にそそられるねえ」
思ったことを正直に言ったら、皇帝にギロリと睨まれた。
皇宮の応接室で、並んでソファに腰掛ける皇帝夫妻に向かい合う形で座って酒を飲んでいたのだが。
途中から、向かいでうとうとしだした皇妃様は、とうとう限界を迎えたらしく、力尽きるようにぽふりと皇帝の腕に体をもたせかけた。
「ルシェル」
「ん……、ん〜……」
カイナスが、自分にもたれかかってきた皇妃様に(かつて聞いたことのないような優しい声色で)声をかけると、声をかけられた皇妃様の方は、カイナスに寄りかかる上でどこが最適なポイントなのかを探るように、もぞもぞとみじろぎを始める。
「…………」
やがて、彼女の中で収まりの良い終着点を見つけたのか、身を預けていた方のカイナスの片腕に自らの腕を絡ませ、気持ちよさそうにすやすやと寝息を立て始めた。
正直、その様子は側から見ていてもあまりにも可愛らしすぎて。
「俺は今……、お前との酒の席にルシェルを同席させた自分に、激しく後悔と怒りを覚えている……」
ゴゴゴゴゴ、と擬音が聞こえてきそうなほど心底そう思っている様子のカイナスだったが、そんなことも梅雨知らず、あどけない表情で眠りこける皇妃様の姿のギャップに、思わずプッと吹き出してしまった。
「何がおかしい」
「いや……ごめん。お前、変わったなあって」
カイナスが、俺が笑っているのを尻目に、使用人から渡されたブランケットで皇妃様を覆い隠すように包み隠そうとする。
が、当の皇妃様はそれが息苦しかったのか、いやいやをするようにカイナスがかけたブランケットから逃れようと身を捩る。
カイナスとしては、あまりにもあどけなく可愛い顔で眠りこける皇妃様を、俺の目から隠したかったんだろうが。
俺としては、冷静でこれまで他者に対してあまり興味を抱く様子がなかったあのカイナスが、一人の少女にこんなに翻弄される姿を見る日が来ようとは、夢にも思っていなかった。
「でもまあ……、安心したよ。見つけたんだなあ、唯一無二ってやつを」
「……そうだな」
そう言って、皇妃様の顔にかかる髪をはらい避けるカイナスの顔は、かつてないほど慈愛に満ちたものだった。
「やれやれ……。じゃあ、おじゃま虫は早々に立ち去ることにするよ」
立ち上がり様に、貸しひとつだからな、と釘を刺すのも忘れない。
ついでに、飲み掛けの高級酒も瓶ごといただいて退散した。
古い付き合いの従兄弟に、こころから愛すべき伴侶ができたことを、嬉しく思いながら――。
――
「ルシェル」
ノルンが去った後、こちらの左腕にしがみついて一向に離れようとしないルシェルにそっと声をかける。
しかし、声をかけられた方のルシェルは「ん〜……」と呻くだけで、起きる様子が全くない。
「……」
肩越しから覗き込むと、ルシェル本人からなのか、掛けたブランケットからなのか、ふわりと心地良い香りが漂ってくる。
途端に、なんとも言えない気持ちになるが、しがみついている方の本人は安心しきった顔ですやすやと寝息を立てている。
「……ルシェル。立って歩けないのなら、部屋まで運んで行ってやるから一旦この腕を解いてくれ」
そう声をかけると、ふ、とルシェルが瞼を震わせ、微睡のなかを彷徨いながらも少し身を起こした。
わずかに目線を彷徨わせた後、こちらの腹から顔に向かって目線を辿るように表を上げる。
「カイナス様……」
言って、ルシェルがそのままソファに膝立ちになり、両腕を俺の首に絡めてきた。
そのまま、抱きしめるように柔らかい体を俺に預けてくる。
「ん……」
耳元をくすぐる吐息混じりの声に、どきりと胸が大きく跳ねた。
暖かくて、柔らかくて、折れてしまいそうなほどに細く小さな体。
壊れてしまわないか不安な気持ちを抱きながら、そっとルシェルを抱きしめ返す。
酒で気持ちがほどけているせいもあるとはいえ、彼女が自分にこんなにも身を委ねてくれることが嬉しかった。
――ふと、古い記憶が蘇る。
カイ、と。
屈託なく自分を呼ぶ優しい声。
手のひらからすり抜けていってしまったもの。
守れなかったもの。
二度と失いたくないもの。
守りたかったもの。
胸を突き刺す郷愁が、ふいに自分を苛んだ。
腕の中の少女を、ぐっ、と力強く抱きしめる。
「う……?」
少女の苦しそうな声に、ふと我に返る。
「ああ、すまない。苦しかったか」
「……いえ……」
どうやらルシェルの方も、少し酒が抜けて意識がはっきりしてきたようだった。
片手で両目を抑えて、
「……わたし、やっちゃいましたか?」
片手で自分の口元を隠し、もう片方の手で俺の肩を掴んだまま、ルシェルが気まずそうに訪ねてくる。
「そんなことはないが。だがもう今日は休んだ方がいいだろう。部屋まで送っていこう」
そう言って、ルシェルの膝を
「すみません……。このあいだも、こんなことありましたね」
「なに。これだって夫の役目だ」
大したことでもない、と言うと、ルシェルは「ありがとうございます」と言って小さく笑った。
この、小さな体とその両肩に、帝国という大きな重荷を背負わせてしまったことに、罪悪感がないと言ったら嘘になる。
それでも――、その罪悪感と引き換えにしてでも、手に入れたかったものが今、腕の中にある。
それが自分のエゴだとわかってはいるが、それでも――選んでしまった以上、絶対に守ると心に誓い、腕の中の妻を部屋へ送り届けるべく、抱き上げたのだった。
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