第13話 ルシェルと本と涙

「はい、では確かに。受理致しました」


 そう言って、私がサインしたばかりの婚姻届を受け取った政務官が、手にした書類を恭しく封筒の中にしまい込んだ。

 当たり前だが、カイナス様の名前も記入済みである。


 あれから。

 皇帝(と、これからは私の部屋になる)の部屋に案内され、落ち着く間もなく矢継ぎ早に婚姻届にサインをさせられた。

 させられた――という言い方はよくないか。

 別に無理強いされたわけでも、嫌々したわけでもないし。


「それでは――皇帝陛下、皇妃様。私はこれで」

「ああ」


 婚姻届の入った封筒を大事そうに抱え、では、と挨拶をして政務官が退室する。


「これで、正式に夫婦となったわけだが」

「はい」

「……」

「えっ、どうしたんですか?」


 カイナス様が、急に俯きながら胸を押さえて目を閉じてしまったので、具合でも悪くなったのかと思わず心配になって立ち上がる。


「いや、感動を噛みしめていた」

「あ……、そうですか……」


 とんだ乙女だった。

 なんの感動なのだろうとも思ったが、深く突っ込むのはやめた。

 人にはいろいろ感動ポイントがあるのだ。


「では約束通り、書斎を案内しよう」


 そうやって私が一人うんうんと納得していると、どうやら感動タイムから戻ってきたカイナス様が私に向かってそう伝えてきた。


 そうだ! 書斎!

 なんだか、皇帝の印象が強すぎてどうも忘れがちになってしまうのだけど、カイナス様は憧れの作家、エルマ・テラーその人なのだ!

 いったい、どんな場所であんな素晴らしい作品が描かれたのか、まさか人生で目の当たりにする日が来るとは思ってもいなかった。

 

 先導するカイナス様が、室内にいくつかあるドアの一つをかちゃりと開ける。


「皇帝としての執務をする部屋は別にある。ここは――、完全に、執筆するためだけの部屋だ」


 そう言って、カイナス様が招き入れてくれた書斎に、私はそろりと足を踏み入れる。

 ふっ、とカイナス様が手を振ると、室内に魔道具で出来た照明の優しい光が灯る。


 壁に設置された大きな本棚。

 その本棚に囲まれるように、飴色の上品な艶のある机が、静かに佇んでいる。

 窓から見える空は、茜色から群青に変化するグラデーションが美しく描かれていた。


「素敵ですね……」


 思わず、ポツリと漏らす。

 この部屋自体が、なんだかカイナス様の物語に出てくる世界みたいに見えるのは、私の贔屓目だろうか。

 いまにも部屋中を、キャラクターが元気に飛び回っているような錯覚を覚えた。

 はっ。いけないいけない。執筆部屋を見ただけで感動してぼうっとしてしまった。

 私は、気を取り直してカイナス様に話しかける。

 

「本棚、見てもいいですか?」

「もちろんだ」


 持ち主の許可を得られたので、次に私はワクワクしながら本棚へと足を進める。


 あっ、この作家知ってる。

 この作家も。私の好きなやつだ。


 共通点を見つけて嬉しくなったり、知らない作家を見て興味を惹かれたり。

 ただ並べられている本を見ているだけなのに、こんなに楽しい。


「気に入ったものがあれば好きに読んでくれて構わない。そういう約束だったからな」


 私が夢中になって本棚を見つめていると、カイナス様が苦笑しながらそう言った。


 そうして、本棚を物色していた先に――あった。


『光の勇者と魔法使い』


 シリーズものとして出されているその本たちは、きちんと刊行順で本棚に並んでいた。

 そっと一冊手に取り、パラパラとめくってみる。

 それだけで、かつて毎夜毎夜、寝る前に読むことを楽しみにしていた、少女の記憶が蘇る。


「……あれ?」


 すうっ、と、頬を一筋の滴が流れた。


「あれ……、なんで」

「ルシェル」


 名を呼ばれ、何も考えずただ反射で振り向く。

 そこには、なんとも言えない表情をしたカイナス様がいた。

 見上げると、頬を流れた涙の筋を、カイナス様の親指で優しくなぞられる。

 なんだろう――、なんだかよくわからないけど、気持ちが凄く不安定だ。

 気を落ち着けようと、目を閉じて、静かに大きく息を吸う。

 すると、カイナス様の親指の当たる先、頬の辺りに、しっとりとした温かいものが触れた。

 それがカイナス様の唇だ、と気づく頃には。

 カイナス様に――強く抱きしめられていた。


 驚きより、心地よさが勝った。

 何故か急に湧き上がった私の感情ごと、安心させるように強く抱きしめられて、なんだか泣きたいくらいほっとした。

 再び目を閉じて、そっと抱きしめ返すように、カイナス様の背中に手を伸ばす。

 そうすると、より一層抱きしめられる腕に力がこもった気がした。


 ――どれくらい、そうしていただろう。


「カイナス様」

「ああ」


 私の呼びかけにカイナス様が短く応え、そっと私から離れていく。


「大丈夫か」

「……はい」


 なんだったんだろう、今のは。

 理由のわからない感情の波に飲まれた。


「ルシェル」


 カイナス様に肩を掴まれる。


「慣れない移動で疲れたんだろう。今日はこのくらいにして、今夜は早く休むといい」


 そろそろルシェルの部屋も用意できているだろう、と手を差し出してくる。


「はい……」


 私は、なんでもない風を装い、カイナス様の手をとった。

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