最終話 この世に生きる幸せ

「ここは、女神の涙の部屋……?」


 ミレイユに案内されたのは、生誕祭の夜、前皇帝クロヴィスに連れて来られたあの部屋だった。

 神殿のような部屋の中央で、宙に浮かんだ黄金色の巨石が眩く輝いている。


(なんて神々しい輝き……)


 あの夜はどこか禍々しくも見えていたが、今は清らかさしか感じない。


 吸い込まれそうな美しい煌めきに魅せられ、アルベリクと並んで言葉もなくただ見つめていると、コツ……とミレイユの足音が響いた。

 

「アルベリク。正式に皇太子となった貴方に、この秘宝が何のために存在するのか教えてあげるわ」

「秘宝が存在する、理由……?」


 アルベリクがミレイユを振り返る。

 イネスも、自分が聞いてもいいのだろうかと戸惑ったが、ミレイユがイネスに笑顔を向けるので、黙って話を聞くことにした。


「理由があるならおそらく、帝国の危機を救うためだと思いますが……」

「ふふ、鋭いわね。そのとおりよ」


 ミレイユが満足そうに微笑んで、女神の涙を見上げた。


「帝国の危機というのは、女神にとっては皇家の存続の危機のこと。女神は自らの血筋である皇家の血脈が途絶えることのないように、私たちにこの秘宝を授けた。もし皇家存続の危機が訪れたとき、この石を使って世継ぎをひとり授かれるようにと。この石には、女神の持つ生命を司る力が込められているの」


 そういえば、とアルベリクが呟く。


「クロヴィスが若返りを果たした理由として、こう言っていました。"皇家は女神の子孫であるから、その血統存続のため、皇帝の座に就く者は実子を持つまで若返りを繰り返す祝福を受けている"、と……。それはまったくの嘘という訳でもなかったのですね」


 ミレイユもうなずいた。


「そうね。この秘宝は血統存続のための祝福とも言えるわ。ただ、兄はこの力を私欲のために利用してしまった。まさか若返りに使えるなんて思いもしなかったけれど」


 呆れたように肩をすくめるミレイユに、アルベリクは返事をしなかった。


 もし今、自分にこの秘宝を使う資格があったとしたら、アルベリクは間違いなくイネスのために願いと魔力を捧げただろう。


 しかし、今のアルベリクは皇帝ではないから秘宝を使えはしないし、そもそも、クロヴィスのように私利私欲のために願ってはならない。


 どことなくやるせなさを感じながらきびすを返そうとしたとき。

 

「待ちなさい」


 ミレイユから再び呼び止められて、アルベリクは眉をひそめた。


「何ですか? もう用は済んだでしょう?」

「貴方こそ何を言ってるの。本題はこれからよ」

「本題?」


 意図が分からず首を傾げるアルベリクを無視して、ミレイユがイネスを手招きした。

 イネスも訳が分からないながらも、ひとまずミレイユのそばへ歩み寄る。


 すると、ミレイユが逃がさないとばかりにイネスの腕をぎゅっと握りしめた。


「ミ、ミレイユ様……!?」

「ふふ、これからちょっと驚かせてしまうかもしれないけど、許してちょうだいね」


 ミレイユが悪戯っぽく笑ってみせる。


「ミレイユ様、一体何を……」


 驚かせるとはどういうことなのか、この腕はどうしたらいいのか。

 イネスが戸惑いながらミレイユの横顔を見つめると、ミレイユはいつのまにか真面目な表情に戻っている。


 そして、目の前に浮かぶ女神の涙を見据えると、イネスの腕を掴んでいるのとは反対の手をゆっくりと掲げ、厳かな声音で語りかけた。


「慈悲深き女神の涙よ。私のすべての魔力と引き換えに、イネス・コルネーユに命を授け、本当の人間として生かし給え」


 ミレイユが願いを告げた瞬間、掲げた片手から膨大な量の魔力が女神の涙へと吸い込まれていく。


「ミレイユ様……!?」

「母上!?」


 驚くイネスとアルベリクの目の前で、ミレイユの手の平からはとどまることなく魔力が吸われ続ける。


 そうして、やがてリボンの端がひらりと風に舞うように、魔力の帯がたなびいて石の中へと消えていき、ミレイユの魔力が吸い尽くされたことが見て取れた。


「……ふう、これで全部ね」


 なんてことないように呟くミレイユに、イネスが目を潤ませて問いただす。


「ミレイユ様、なぜこんなことを……! わたしなんかのためにミレイユ様の魔力を犠牲にするなんて……。こんな取り返しのつかないこと、わたし──」


 両目からぽろぽろと涙をこぼすイネスを見て、ミレイユが優しく微笑んだ。


「気にしないで、イネス。貴女が重荷に感じる必要はないわ。私は帝国の危機を救うために、皇帝としての責任を果たしただけ」

「皇帝としての、責務……?」

「そうよ。だって、これは緊急事態よ。皇族は今、私とアルベリクの二人だけ。私はエドガール以外を伴侶に持つ気はないし、アルベリクだってイネス以外と結婚する気なんてないでしょう?」


 首を傾げて尋ねるミレイユに、アルベリクが苦笑する。


「母上、あなたという人は……。さっき俺に馬鹿だと言っていましたが、母上も相当──どうかしてますね。ですが、仰るとおりです。俺の相手はイネスだけだ」


 ミレイユが可憐に笑った。


「ね、イネス。聞いたでしょう? このままでは皇家の血が途絶えてしまうわ。だから、さっきの願い事はあくまでもこの国のため、女神の意思に従うためなの」

「ミレイユ様……」


 イネスが言葉に詰まる。

 何と言えばいいのか、分からない。

 ただただ胸がいっぱいで、温かな涙が止まらない。


「あ、ほら、願いが叶う瞬間よ」


 ミレイユに指差され、イネスが自分の両手を見ると、左右の手の平から淡い赤色の光が溢れ出していた。


 美しい光はやがてイネスの全身を包み込み、そして──。




◇◇◇




「イネス、危ないから気をつけるんだ」


 皇宮の温室で趣味の押し花作りに勤しむイネスの横から、アルベリクが心配そうに様子をうかがう。

 イネスは園芸ばさみでチョキン、チョキンと茎や葉っぱを切りながら朗らかに笑った。


「大丈夫ですよ、もう鋏で手を切ったりなんて────いたっ」


 鋏で手を切る代わりに、うっかり薔薇の棘で指を刺してしまった。


「ほら、だから言ったじゃないか」


 アルベリクが慌ててイネスの手を取り、指先にじわっと滲み出てきた赤い血をハンカチで吸い取った。


「君はもう怪我もするし血も出るのだから、よく注意しないと」

「はい、すみません……」


 イネスがしょんぼりと眉を下げると、アルベリクが苦笑しながらイネスの頭を撫でた。


「小さな傷でよかった。ほら、もう大丈夫だ」


 押さえていたハンカチを外すと、たしかに流血は止まっていた。


「ありがとうございます」


 イネスがアルベリクを見上げてお礼を言うと、彼はイネスの指を見つめ、感慨深そうに呟いた。


「本当に、生きているんだな……」


 魔導人形の身体では、決して流れることのなかった赤い血。

 それが今、イネスの身体の隅々まで流れわたっている。


 今のイネスは、薔薇の棘が刺さっただけで傷ができ、痛みを感じて、血も流れる。


 それはつまり、イネスがもはや人形ではなく、生身の身体である証拠。命が宿っている証だった。


 イネスも小さな傷を愛おしげに見つめる。


「女神様の力と、ミレイユ様のおかげですね」


 あの日、ミレイユが女神の涙に魔力を捧げ、イネスは人間としての生を与えてもらった。


 帝国の危機を救うためだと主張していたが、もちろんそれが方便であるのは分かっている。

 

「わたし、アルベリク様とミレイユ様にいただいた二度目の人生を、大事に生きていきます」


 イネスがアルベリクの瞳を見つめて言った。

 綺麗な青い瞳が細められ、大きく温かな手が、イネスの華奢な手を包み込んだ。


「こうして生きていてくれて、本当に嬉しい。君の二度目の人生が最後まで幸せであるように、俺が隣で見守ってもいいだろうか?」


 優しい声音でそう問われ、イネスの胸が、本物の心臓が早鐘を打つのを感じる。


「君の伴侶として、ずっとそばにいさせてほしい」


 イネスが頬を染めて「……はい」とうなずくと、アルベリクはこの上なく嬉しそうに笑って、イネスの指先に口づけた。

 まるで壊れ物を扱うかのような触れ方がくすぐったい。


「……アルベリク様、もう魔力を供給していただく必要はありませんからね」


 イネスが照れ隠しでそんなことを言うと、アルベリクが顔を上げて悪戯っぽく目を細めた。


「そうだな。もう魔力の高温化で意識を失う心配もしなくていいから、遠慮せずにキスできる」

「えっ、それはちょっと……! 場合によってはやっぱり倒れる可能性も……」

「そうか? では、どこまでなら問題ないか確かめる必要があるな」

「あっ、待ってください、アルベリク様──」


 ある晴れた日の昼下がり。

 温かな日差しが降り注ぐ温室に、たくさんのキスの音と、幸せそうな二人の笑い声が響いていた。


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復讐の人形に恋は許されますか? 紫陽花 @ajisai_ajisai

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