第33話 笑顔
それから、アルベリクはほぼ一日中、イネスとともに過ごすようになった。
食事の時間はもちろん、仕事のときも執務室に呼び、イネスが退屈せずに過ごせるように好みの書物を揃え、押し花作りの作業ができる机も用意してくれた。
「いろいろご配慮くださってありがとうございます」
「いや、ほかにも欲しいものがあれば遠慮せず言ってくれ」
椅子を引いてイネスを座らせたアルベリクが、そのまま流れるように手に口づけ、魔力を吹き込む。
「……!」
イネスが驚いて赤面する。
まだまだ魔力の蓄えには余裕があるのを感じるし、意識もしっかりしているはず。
しかしアルベリクはひどく心配しているようで、事あるごとにこうして魔力を補給してくるのだった。
「イネス、気分は悪くないか?」
「おかげさまで問題ありません。……あの、そんなに何度も魔力をいただかなくても大丈夫ですから……」
「……怖いんだ。気を緩めたら、君が急にいなくなってしまうのではないかと」
イネスの存在を確かめるように頬をなぞるアルベリクの声も表情も切実で、魔力をわけることで彼の不安が和らぐのならと思うと、拒否することはできなかった。
(アルベリク様、どうしてこんなに必死に……)
アルベリクがこれほど懸命にイネスを繋ぎ止めようとしているのは、彼の優しさからだと分かっている。
けれど、こちらを見つめる眼差しと、手の平に触れる唇から感じる熱に、ただの優しさ以外の感情が込められているような気がして。
彼と接するたびに胸が騒ぐのを抑えられなかった。
(……絶対、勘違いに決まっているのに)
少し親しくなれたからといって、口づけをしてくれるからといって、イネスが消えないように手を尽くしてくれているからといって、彼も自分と同じ気持ちを抱いているなどと思ってはならない。
そんなことに
それに、この世への未練を作ってしまってはいけない。
夜会の日、目的を果たしたらすぐ、この身体から離れなくてはいけないのだから。
「わたしはもう大丈夫ですから、アルベリク様はお仕事をなさってください。さっきモーリスさんに何か頼まれていたでしょう?」
「ああ……。あんなのは別にどうでもいいんだが……」
「いけません。アルベリク様にしかできない、大切なお仕事です」
自分を心配してくれるのは嬉しいが、それで本来の仕事をないがしろにはしてほしくない。
そう思って、少しだけ険しい顔を作って言い聞かせると、アルベリクはなぜかおかしそうに表情を緩ませた。
「そうだな。君の悪評が立ってはまずいし」
「わたしの悪評?」
「このままでは、俺がイネスに溺れたせいで仕事をしなくなってしまったなんて噂が立ちそうだ」
「溺れ……!?」
とんでもないけれどあり得そうでもある噂を想像し、イネスが慌てる。それを見たアルベリクは口もとに手を添え、堪えきれないといった様子で声を立てて笑った。
「……よかったです」
「何がだ?」
「アルベリク様が笑ってくださって」
エドガールとミレイユに似ていて、でも二人とは違ったあどけなさも感じるアルベリクの笑顔。
見ていると温かな気持ちになるその笑顔を、久しぶりに目にした気がする。
当主としての仕事に加え、今は夜会の日の計画、それにイネスにかけた魔法の研究にも時間を割いているようで、アルベリクは険しい表情をすることが多くなっていた。
それだけ重圧があるのだろうとイネスは心配だったが、ほんのひと時でも笑った姿が見られたことに安堵する。
「わたし、アルベリク様の笑顔が好きなんです。見ていてほっとするというか──……って、すみません、変なことを……」
アルベリクの笑顔が嬉しくて、つい余計なことを口走ってしまった。
馴れ馴れしいと思われてしまったらどうしようか……と思ったが、案外アルベリクは気にしていないようだった。むしろ、反応はいいように見える。
「……では、これからはなるべく笑顔を心がけよう。たしかに最近はほとんど笑っていなかった気がする。それから──」
アルベリクがわずかに耳を赤くし、綺麗な青色の目を柔らかく細めた。
「俺も君の笑顔が好きだ」
「……っ!」
「では、しばらく仕事をしてくるから、何かあればすぐに教えてくれ」
「はい……」
「仕事が終わったら、一緒に庭を歩こう」
「はい……」
それから、イネスは無心で──なるべく無心で、押し花作りに
何度かうっかり手を滑らせて、
(わたしったら、笑顔が好きだと言われただけで動揺しすぎだわ……。もっと落ち着かないと)
イネスが反省の溜め息をつく。
まさか、あとでもっと動揺することになろうとは思いもせずに。
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