第28話 不誠実な真似
「おかえり、イネス」
屋敷に戻るとアルベリクが出迎えてくれ、イネスは安堵の溜息を漏らした。
同じ「イネス」と呼ばれるのでも、皇帝に感じるのは嫌悪や不快感だけだが、アルベリクに呼ばれると不思議とくすぐったい気持ちになる。
「ただいま戻りました、アルベリク様」
「無事に帰ってきてくれてよかった」
アルベリクは心からほっとしたような笑顔を浮かべ、馬車から降りるイネスに手を差し出した。
「皇帝に変なことはされなかったか?」
「……はい、大丈夫です」
本当はいろいろあったし、協力者であるアルベリクにはすべて報告すべきだろう。
そう頭では分かっているものの、詳細を話すのはなんとなく
(……あとでちゃんと報告するわ。すべて大事な情報だもの。でも……)
手の甲に口づけされてしまったことだけは、知られたくない。
突然のことだったし、そうでなくても立場があるから拒否することはできなかった。
別に手の甲へのキスくらい、挨拶のようなものでもあるし、アルベリクは気にしないかもしれない。
そうは思うものの、できれば彼にだけは知ってほしくなかった。
(どうしてこんな風に思ってしまうのかしら。アルベリク様を裏切っているみたいで嫌だから? それとも──)
自分の気持ちに戸惑っていると、ふいにアルベリクから名を呼ばれた。
「イネス」
「は、はい。何でしょうか?」
アルベリクの顔を見上げると、彼の視線はイネスの髪に向けられていた。
「その髪……綺麗に結い上げていたのにどうしたんだ?」
「あ……」
出かける前とは違い、イネスは髪を下におろして肩に流していた。髪飾りもつけていない。
アルベリクが尋ねるのも当然だった。
「これは……少し髪型が崩れてしまったので」
また、きちんと説明しなければと思っているのに、口が勝手に誤魔化してしまう。
主人に隠し事をするなどあってはならない。
そんなことは当たり前のこととして
アルベリクへの忠誠心に変わりはないどころか、前よりもずっと強くなったと思っていたのに。
ちらりと彼の表情をうかがうと、アルベリクはその場で立ち止まり、イネスの手を強く握りしめた。
その目はなぜだかひどく不安げに見える。
「アルベリク様、どうされたのです──」
「イネス」
最後まで言い切らないうちに、頬にアルベリクの手が触れた。
「あいつに何かされたんじゃないか? 隠さないで教えてくれ」
誤魔化せたつもりだったが、アルベリクはイネスの不自然な様子に気づいたらしい。
切なげに眉を寄せ、本当のことを教えてほしいと懇願する。
「君を怒ったりしないから、お願いだ」
彼からこんな顔で頼まれては、隠しておくことなどできなかった。
◇◇◇
場所をアルベリクの部屋に移し、イネスから皇宮での出来事を包み隠さず伝えられると、アルベリクは怒りで目の前が真っ白になった。
(あの男……!)
名前で呼び合うよう仕向けたことも腹立たしいが、そのうえ口づけまで──。
皇帝がその汚らわしい手と唇でイネスに触れたのかと想像するだけで、頭がおかしくなりそうだった。
しかし、目の前でイネスが震えている姿が見えて我に返る。
彼女は申し訳なさそうに眉を下げ、自分に対して怒っているのだと思っているようだった。
アルベリクはひとつ深呼吸をして、荒れた心をなんとか落ち着ける。
「……イネス、話してくれてありがとう」
「いえ……本当に申し訳ありません」
ソファに腰かけたイネスが深く頭を下げる。
「顔を上げてくれ。君が謝る必要なんてどこにもない。仕方のなかったことじゃないか」
「ですが……わたしは最初、アルベリク様に嘘をついて誤魔化そうとしてしまいましたし……」
真面目なイネスは、主人に対して不誠実な真似をしたことが許せないのだろう。
そんなことなど気にしなくていいとは思うが、たしかにイネスにしては珍しいことだ。
「誤魔化してしまったのは、俺が怒ると思ったからか?」
アルベリクが尋ねると、イネスはふるふると首を横に振った。
「それが、自分でもよく分からないのです。ただ、計画のためとはいえアルベリク様を裏切るようなことをしてしまったのを知られるのが嫌で……」
「俺が傷つくと思ったのか?」
「いえ、というより……アルベリク様以外の人とそんな風に触れ合ってしまったことを知られたくなかったのだと思います」
「は……?」
イネスの返答に、わずかに胸がざわめく。
「……それは、俺への忠誠心から?」
ただの勝手な願望なだけかもしれないが、もしそうでないとしたら。
「忠誠心からであれば、わたしは初めからきちんとご報告していたはずです。なのに隠そうとしてしまったので……その理由が、自分でも分かりません」
ますます申し訳なさそうにうつむくイネスを、アルベリクが愛おしそうに見つめる。
彼女は皇帝に対して憎しみしか抱いていないのは知っている。
だから、皇帝と親密になろうとしたのは、自分と母ミレイユのためだと分かっている。
計画のためにはやむを得ない出来事だったのに、それをアルベリクには知られたくなかったということは──。
(イネスも俺を特別に想ってくれていると、自惚れてもいいのだろうか)
先ほどまで不安や怒りに揺れていた心が、今度は期待に膨らみ始めている。
つい気持ちが逸ってしまうが、今は浮ついている場合ではない。
彼女が危険を冒して手に入れてくれた情報をうまく使って、ミレイユ救出を成功させなければならない。
イネスの気持ちを確かめるのは、すべてが終わってからだ。
アルベリクが優しい声音でイネスに返事する。
「今は理由が分からなくてもいい。ただ、俺は君がそんな気持ちになってくれたことが嬉しい」
「えっ、嬉しい……?」
まさかそんな答えが返ってくるとは思っていなかったようだ。驚いて目を丸くしている様子が愛らしい。
その姿を目に焼きつけるように見つめたあと、アルベリクは話を仕切り直すように小さく咳払いした。
「では、生誕祭について話し合おうか」
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