第10話 イネスのお願い

 その後、ネリーに化粧を直してもらい、お願いした髪型に仕上げてもらったイネスは、鏡の中の姿を見て歓声をあげた。


「すごいわ、ネリー! こんなに可愛くしてくれるだなんて!」


 ネリーは昔から化粧や髪結いが得意で、ジュリエット時代に崩れない髪の結い方を教えてくれたのも彼女だった。


 さすが、今日は今までで一番の仕上がりになっている気がする。

 

「イネス様がお綺麗なので、私も気合いが入りました。何もしなくても女神様のように美しいお顔立ちですが、白粉おしろいで鼻筋を際立たせ、流行りの口紅で唇の艶感を強調しております」

「たしかに、今日はぐっと大人っぽい表情に見えるわ」


 つい浮かれてしまい、鏡の前で何度も角度を変えて確かめてしまう。すると、ネリーが意味ありげに「ふふふっ」と笑みを漏らした。


御髪おぐしには薔薇の香油をつけさせていただきました。しっとりとした艶が出て、薔薇の香りも雰囲気を高めてくれると思います」

「まあ、そうなのね。雰囲気を高めて……」


(──って、何の雰囲気かしら?)


 よく分からずにきょとんとしていると、ネリーが少し顔を近づけて、秘密めいた顔で囁いた。


「こちらの香油、『薔薇の誘惑』という名前で、今とても人気なんです。今日の大人っぽいイネス様のお姿を見て、この香りを嗅げば、きっとアルベリク様も我慢できなくなってしまうと思いますよ」


 ネリーが内緒話かのように口元に人差し指を添え、にこっと笑う。


(我慢できなくなる……?)


 やはり何のことだかよく分からない。

 けれど、ネリーの楽しそうな様子に水を差したくなくて、イネスは知ったかぶりで礼を伝えたのだった。




◇◇◇




 それから、ネリーに急かされるようにして、一緒にアルベリクの部屋へと向かった。

 今日は、また立ち姿と歩き方を見てもらったあと、貴族の話法の練習をする予定だったはず。

 

 イネスはカモフラージュ用の伝記の本を抱えながら、部屋の扉をノックした。


「待ってたよ。さあ、おいで」


 外向けの笑顔を浮かべながら、アルベリクが出迎えてくれる。

 彼から手を取られ、そのまま部屋の中へ入れてもらおうとしたイネスだったが……ネリーのがっかりしたような気配に気がついて立ち止まった。


「ま、待ってください……!」


 アルベリクにしか聞こえないくらいの、ごくごく小さな声で待ったをかける。


 彼から怪訝そうに見つめ返され、イネスの額に冷や汗が浮かぶが、友人のためにもここで引くわけにはいかない。


(ネリーが落ち込んでる……。きっと、アルベリク様の反応が物足りないんだわ)


 あれほど気合いを入れて一生懸命に支度をしてくれたのに、アルベリクが何も言わないから、きっと落胆してしまったのだ。


 友人の頑張りを認めてもらいたくて、イネスが小声のままアルベリクに催促する。


「今日のお化粧と髪型、侍女のネリーが頑張って大人っぽく仕上げてくれたんです。薔薇の香りで雰囲気が高まって、アルベリク様も我慢できなくなるくらいらしいので、そういう反応でお願いできますか?」


 イネスの頼みを聞いたアルベリクは、無表情で一瞬固まったあと、イネスと同じく小声で囁いた。


「……分かった。ただ、驚いて逃げないように」

「え?」


 どういうことかと思った瞬間、アルベリクの整った顔がすぐ間近に迫り、頬に柔らかな何かが触れた。そして、首筋にもう一度──。


 突然のことに、わけが分からず呆然としていたイネスだったが、やがてそれが何だったのかに気がつくと、陶器のような白肌が一気に赤く染まった。


「……アルベリク様!!」


 恥ずかしさに耐えきれず、思わず「何てことをなさるのですか」と目で訴える。

 しかし、アルベリクは悪びれた様子も見せず、ネリーに聞こえるような声で言い放った。


「今日の君は一段と魅力的で、我慢できなくなってしまった。どうやら俺を誘っているようだが……続きは部屋の中でしよう」

「つ、続き……!?」


 アルベリクが真っ赤になったイネスを抱き上げて、部屋の中へと入る。

 閉まる扉の向こうに、口元に両手を当て、嬉しそうに顔を上気させたネリーの姿が見えた。




◇◇◇




「……さて、あれくらいしておけばいいだろう」


 扉を閉めたあと、すぐにイネスを下ろして扉の鍵を閉めると、アルベリクが軽く嘆息して言った。


「姿勢と歩き方を確認するから来てくれ。立ち姿はそろそろ問題ないと思うが……」


 つかつかと部屋の奥へと歩きながらイネスに話しかけるが、彼女からの返事はない。

 どうしたのかと振り返ってみれば、イネスは両頬に手を当てて床の上にへたり込んでいた。


「どうした? そんなところで休んでいる暇はないぞ」


 アルベリクが片手を腰にあて、呆れたように見下ろす。


「……も、申し訳ございません。ですが、驚きすぎて腰が抜けてしまって……」

「君がそういう反応・・・・・・をしろと言うからしたんじゃないか」

「たしかにそうですが、まさかああいうことだとは思わなくて……」


 真っ赤な顔で言い訳するイネスを見て、アルベリクは、まあそうだろうな、と思う。


 雰囲気が高まるだとか、我慢できなくなるだとか、意味が分かっていたら自分から言い出すわけがない。彼女のような純粋な人間なら特に。


 初めからそれは分かっていたが、ここは溺愛ぶりを見せつけるのにいい場面かと思ったのと、イネスがどこまで耐えられるかを確認しておきたくて、あえて大袈裟にやってみたのだった。


(首筋はやり過ぎだったのかもしれない。まずは、頬までで慣れさせたほうがいいか)


 そんなことを考えながら、いつまでも立ち上がれないイネスを見かねて仕方なく手を貸してやる。

 イネスはまだ恥ずかしがっているのか、あからさまに目を逸らしたままだ。


「……アルベリク様は、どうしてそんなに平然としていられるのですか?」


 よろよろと立ち上がったイネスは、まだ足元がおぼつかないようなので、アルベリクは近くのソファへと座らせ、自分も向かいのソファに腰かける。


「それは俺が遊び慣れていると言いたいのか?」


 余計な時間を取られてしまったのが煩わしくて、つい返事がきつくなってしまうと、イネスが慌てたように首を横に振った。


「ち、違います! そんなことは思っておりませんが、何か動じないコツがあるなら教えていただきたいと思いまして……」

「別に、そのままでも構わないと言っただろう」

「ですが、腰を抜かすのはいくらなんでもご迷惑かと……」

「まあな」


 たしかに、いちいち動けなくなられたのでは面倒だ。

 多少は受け流せる器量を持ってもらいたい。


「俺も別に慣れているから落ち着いているわけじゃない」

「ではどうして……」

「君はティーカップに口をつけるときに照れたりするか?」

「えっ……いえ、まさかティーカップには」

「そうだろう? 必要があるから口をつけているだけであって、照れる理由など何一つない。つまり、そういうことだ」


 なんてことない理由を説明してやると、イネスはしばらくポカンとした表情を浮かべたあと、「なるほど……」と呟いた。


 さすがに物扱いするのは傷ついただろうかと思ったが、実際そうであるし、下手に優しくして変な感情を持たれてもお互い困るだけだ。これでいい。


 それに、イネスも傷ついたというより、むしろいい助言をもらったというような顔をしているので、こちらが気遣う必要はないようだった。


「すみません、アルベリク様。わたしが不慣れで意識しすぎてしまっていたようです……。これからはアルベリク様の考え方を参考にさせていただいて、わたしはティーカップだと思うようにいたしますね」


 一瞬、皮肉で言っているのかとも思ったが、真面目な彼女は本気でそう考えているのだろう。

 こうやって、変に拗ねたりせずに素直なところは、面倒くさくなくて好感が持てる。


(……いや、好感など持つべきではないな)


 自分は母親の救出と父親の復讐のために彼女を利用しているだけ。

 それが済んだあとのことを思えば、彼女には好感はおろか、憐憫れんびんの感情だって抱くべきではない。


「──そろそろ、身体も落ち着いただろう。今日の練習を始めよう」

「はい、お願いいたします」


 油断すると湧き上がりそうになる情を振り払うかのように、アルベリクはイネスに顔を背け、ソファから立ち上がった。

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