第9話 ジュリエットが遺したもの

「イネス様、髪型で何かお好みのものはございますか?」


 鏡台の前で、侍女がイネスの髪を丁寧にかしながら尋ねる。


「好みの髪型、ですか……?」


 尋ねられたので考えてみるが、真っ先に思いついたのは、ジュリエット時代に毎日していた髪型……つまり、邪魔にならないようにきっちりとひとまとめにした仕事用の髪型だった。


 あれが一番しっくりくるのは確かだが、今問われているのはそういうことではないだろう。


 仕事用の髪型を頭から追い出して、今度はミレイユの髪型を思い出してみる。

 ミレイユはどんな髪型も似合っていたが、自分にもちゃんと似合うだろうか……。


 と、一瞬心配になったところで思い出した。


 今の自分は地味なジュリエットではなくて、美しいイネスなのだ。この顔だったらミレイユのように何でも似合うに決まっている。


「では、あの……ハーフアップにして、両耳の上に編み込みでシニヨンを作っていただけたらと思うのですが……」


 いつだったかミレイユがしていて憧れていた髪型をお願いしてみる。

 侍女もすぐに分かったようで、「かしこまりました!」と引き受けてくれた。


 器用に髪を上下に分けて編み込みを作りながら侍女が言う。


「イネス様、私はただの侍女ですから、そのように敬語ではなく、気楽にお話ししてくださって大丈夫ですよ」


 侍女に言われて、イネスがハッとする。


 貴族らしい言葉遣いを心掛けていたつもりだったが、よく考えたら使用人に敬語を使うのは侯爵令嬢として逆に不自然だったかもしれない。自分の演技力の至らなさを実感する。


 イネスはミレイユが使用人たちへしていたように、にっこりと優しく笑いかけた。


「分かったわ。ここでは客の立場だから遠慮があったのだけれど、これからは気兼ねなく話させてもらうわね」

「はい、ぜひご実家だと思ってお過ごしください」

「ええ、ありがとう、ネリー」

「……っ!」


 イネスが侍女の名前を呼ぶと、彼女は驚いたように目を見開いた。


「私の名前を覚えてくださっていたのですか……?」

「あ……その、仲良しのお友達と同じ名前だったから」


 イネスはしまったと思いながら、平静を装って返事する。


 名前を知っている本当の理由は、ネリーが「ジュリエット」の同僚だったからだ。仲良しの友人でよく一緒にいたから、ついジュリエットのときのように名前で呼んでしまった。


 変に思われていないだろうかと心配したが、ネリーは嬉しそうに顔を綻ばせた。


「イネス様のご友人と名前が同じだなんて光栄ですわ」


 友人を騙していることに少しの申し訳なさを感じていると、鏡越しに見えたある物に、イネスはふと違和感を覚えた。


「ネリー、そのリボン……」


 侍女たちの制服は首元にリボンを着けることになっていたが、リボンの色は三種類あるうちから好きなものを選ぶことができ、ネリーのリボンは青色のはずだった。


 しかし、今着けられているリボンは赤色だ。


 その上、なんとなく見覚えがある。


「このリボンが、どうかしましたか?」

「えっと……ネリーには青色が似合いそうだけど、赤色が好きなのかしらと思って……」


 もしかしたら、最近好みが変わって新しいものに替えたのかもしれない。そう思ったのだが──。


「……これは、形見なんです」


 先ほどまで朗らかに会話してくれていたネリーが寂しそうに呟くのを聞いて、イネスは赤いリボンの意味を悟った。


「数週間前に、私の大切な友人が事故で亡くなってしまったんです。いつも一生懸命で優しくて、大好きな友達だったのに、もう会えないのが信じられなくて……。だから、少しでも近くに感じられるように、彼女が使っていたリボンを形見にもらったんです。ここに刺繍されているのが、彼女の名前です」


 そう言ってネリーが解いて見せてくれたリボンには、見慣れた「ジュリエット」の文字の刺繍があった。


「……そう、だったのね……」


 イネスが返事をすると、ネリーが急に慌てたようにポケットを探し始めた。そうして、おろおろしながらハンカチを差し出す。


「よろしければ、こちらのハンカチをお使いください。すみません、イネス様が泣いてくださるとは思わなくて……」

「あ……わたしったら……」


 ネリーに言われて、自分が涙を流していたことに気づく。


 イネスは申し訳なさそうなネリーからハンカチを受け取ると、両目からこぼれ落ちた涙にそっと押し当てた。


(まさか、ネリーがわたしのリボンを形見にしてくれていたなんて……)


 当主だったエドガールが亡くなって、屋敷の人々が悲しんでいるだろうとは思っていたが、自分の死をいたんでもらえるとは考えていなかった。


 エドガールとミレイユを守れなかったのだから当然のこと。

 何も遺せなかったジュリエットには、死を悲しんでもらう資格などないと思っていた。


 けれど、大切な友達だったネリーが悲しんでくれていた。

 彼女も自分と同じように、ジュリエットのことを大切に思ってくれていた。


 それだけで、ジュリエットの人生にも価値があったのだと感じられる。

 

(今のわたしは「イネス」であって、「ジュリエット」ではない。でも、ネリーとまた一から友情を育めたら……)


 イネスは、涙を拭き終えると、ネリーを見上げて微笑んだ。


「……きっと、ジュリエットもネリーのことがとても大切だったと思うわ。だから、リボンを形見にしてもらえて喜んでいるはずよ」


 イネスの言葉に、ネリーは初めは驚いたような表情を見せたが、やがてくすぐったそうに頬を染めて笑った。


「なぜだか今、ジュリエットから言われたみたいでドキッとしてしまいました」

「そう? じゃあ、ジュリエットが言いそうなことをもう一つ言ってあげるわ」

「何でしょうか?」

「ジュリエットの分まで、あなたは幸せになるのよ」


 ジュリエットを想ってくれたことへの感謝と、ネリーの幸せを願う気持ちを込めてそう伝える。

 ネリーの茶色の瞳が、わずかに揺れて見えた。


「…………あの子なら、本当にそう言いそうです」

「そうでしょう?」


 少しおどけて言うと、ネリーが潤んだ瞳を柔らかく細めた。


「ふふ、まるでジュリエットに会えたみたいです。ありがとうございます、イネス様」

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