第8話 二人きりのレッスン

「アルベリク様……わたしのこの身体は、一体どなたのものなのですか?」


 真っ直ぐに見つめるイネスの金色の瞳をアルベリクも見つめ返す。


 しかし、やがて彼のほうから逸らされてしまった。


「……違法なことはしていない。気にするな」


 そんな風に言われると余計に気になるが、アルベリクはそれ以上のことは教えてくれなかった。


「そんなことより、計画の話をしよう。君には色々と習得してもらいたいことがあるんだ」


 あからさまに話を変えられてしまったが、向こうに話す意思がないのなら、食い下がっても仕方ない。


(それに、知らないほうがよかった、なんてこともあるかもしれないし……)


 結局、これ以上は聞かないことにし、アルベリクから振られた話題に返事をした。


「習得とは、どのようなことでしょうか?」


 まさか、ミレイユの様子を探るためのスパイ術や、皇帝を亡き者にするための暗殺術などだろうか。

 何でもする覚悟はあるが、運動神経は人並みでしかないため、習得に苦労するかもしれない。


「わたし、それほど運動ができるほうでは……」

「何を想像しているかは知らないが、君に身につけてもらいたいのはこれだ」


 アルベリクが本棚から一冊の本を取り出して、イネスに渡す。


「これは……貴族のマナー教本、ですか?」

「ああ、君には貴族令嬢として社交界に溶け込み、そこから母に繋がる伝手つてが得られないか探ってほしいと考えている。だから、淑女の作法を身につけてくれ」

「かしこまりました。ですが、わたしも一応貴族令嬢なので、大体のマナーは身につけているかと……」

「だいたい、では困る。それに、貴族令嬢と言っても小さな男爵家だろう。そうではなく、侯爵家の出身らしい立ち居振る舞いを身につけるんだ。社交界で主導権を握るには、少しの隙もあってはならない」


 アルベリクから言い聞かせられ、イネスは反省した。


 ミレイユを皇帝の手から救うためには、入念な準備と幾重にもわたる計画、そして不測の事態が起きても切り抜けられる能力が必要だ。


 アルベリクから貴族令嬢としての役割を求められているのであれば、それを完璧に果たせるほどの知識と実力をつけなくてはならない。


「承知いたしました。社交界の華となれるよう努力いたします……!」

「ああ、頼んだ」




◇◇◇




 翌日。


「アルベリク様、一緒に本を読みませんか?」

「もちろんだ。嬉しい誘いをありがとう。さあ、部屋に入ってくれ」


 詩集を抱えて部屋を訪ねてきたイネスを、アルベリクが甘い笑顔で出迎える。


 イネスの肩を抱き、髪を一房掬い取って口づけると、廊下に控えていた使用人たちに真顔で指示を出した。


「彼女と二人きりで過ごしたいから、お前たちは入ってこないでくれ」

「は、はいっ! かしこまりました!」


 アルベリクが頬を赤らめたイネスを室内に招き入れ、ガチャリと内鍵をかけると、廊下にいたメイドたちが顔を見合わせ、「きゃ〜!」と小声で悲鳴をあげた。


「完全に二人きりの世界だったわね……!」

「髪にキスしてたの見た!?」

「アルベリク様のあんなお顔、初めて見たわ」

「本当に仲がよろしいのね」


 メイドたちは、まるで恋愛小説の主人公のような二人の様子にときめいていたが、実際の二人は甘さとはほど遠い会話を繰り広げていた。


「あの、さっきの反応で問題ありませんでしたか?」

「ああ、メイドたちが喜んでいたから大丈夫だろう」

「それにしても、アルベリク様の表情の作り方がお上手すぎて驚きます……」

「あれは父が母に向ける表情を手本にしてみた。君も反応に困ることがあれば、母を真似るといいんじゃないか」

「な、なるほど……! それならよく存じておりますので、わたしにもできそうです」


 イネスが少し自信がついたかのように目を輝かせる。

 アルベリクはそんなイネスの様子にさしたる興味も見せず、一人でどさっと椅子に腰かけた。


「では、そろそろ始めよう」

「はい」


 アルベリクに促されたイネスが、持ってきた詩集をそっと頭の上に載せる。

 そして、そのまま本を落とさないよう注意しながら、すっと背筋を伸ばした。


 そう、今日の目的は二人きりでの読書ではなく、淑女の作法の特訓である。

 誰にも知られずに練習できるよう、アルベリクの私室での逢瀬を装って、彼から指導をしてもらうことになったのだった。

 

「アルベリク様、いかがでしょうか……?」


 真っ直ぐ正面を見つめたまま、イネスが不安げに尋ねる。


「……顎が前に出ている。本に意識を向けすぎだ。肩ももっと下げろ」

「は、はい」

「腰は引かなくていい。頭から爪先まで真っ直ぐに。指先も気を抜くな」

「は、はい」

「よし、そのまましばらく維持してみろ」

「はい……」


 練習科目は姿勢のほかに、歩き方や会話の受け答え、食事のマナーなどまだまだ盛りだくさんだ。一つのことに、あまり時間をかけてはいられない。


(頑張って早く習得しないといけないわね)


 イネスがちらりと横目でアルベリクを盗み見る。

 エドガール譲りの彼の瞳は、父親そっくりの美しい青色だが、どこか暗く翳って見える。


 それはきっと、父を失った悲しみだったり、母を囚われたまま救えない焦りや、自分の不甲斐なさへの怒りだったり……。


 どれも痛いほどによく分かる。

 イネス自身も、同じ辛さを抱えているのだから。


(でも、アルベリク様は実の家族だもの。わたしなんかより、ずっと深く傷ついていらっしゃるはずだわ)


 彼の淡白で素っ気ない態度も、その辛さを押し込めようと無理をしているがゆえなのかもしれない。


(だって、ミレイユ様はアルベリク様のことを、とても真面目で優しい子だと仰っていたわ)


 本来のアルベリクの姿を取り戻してもらうためにも、必ずミレイユを救い出さなければならない。

 そして、そうすることで、生前に叶えられなかったエドガールへの恩返しにもなるはずだ。


 イネスは改めて決意を固め、美しい姿勢の維持へと集中した。




◇◇◇




 イネスが姿勢のレッスンを終えて部屋を去ったあと、アルベリクは執務机で辺境伯としての仕事を片付けていた。

 執事から渡された書類に目を通し、最後に署名を書き記す。


 そのうち、イネスの部屋用の備品購入の書類が出てきて、アルベリクは承認の署名を記入した。


(イネス……母の専属侍女だった女──)


 イネス、というよりジュリエットのことは、母からの手紙で知っていた。


 この間、ジュリエットがこんなことを言ってくれた。

 真面目で一生懸命で、はにかんだような笑顔が可愛らしい。

 自分の娘だったら良かったのに。


 そんなことが毎度のように書かれていたせいで、ほとんど話したこともないのに、妙な親近感さえ覚えていた。


 しかし、だからこそ、今回彼女を蘇らせることに躊躇ためらいは感じなかった。


 彼女はミレイユとエドガールを心から尊敬し、常に献身的だった。

 もう一度蘇ることができたなら、ミレイユを救出し、エドガールの仇を討つことに必ず協力するだろうという確信があった。


 そして、案の定、アルベリクの思ったとおりに動いてくれている。


(彼女は物覚えも早いし、やる気もある。予想どおり、復讐のためのいい人形・・になってくれそうだ)


 アルベリクはペンを置くと、引き出しからある物を取り出した。


 ──あの日、父エドガールが皇帝から授かった勲章だ。


 父が最後に賜った栄誉だと思っていたのに、今では父を死へと追いやった呪わしい物にしか見えない。


 イネスから真実を聞いた直後、粉々に砕いて捨ててやりたい衝動に襲われたが、すんでのところで我慢した。


 両親を皇宮へおびき寄せるための罠だったとはいえ、父の功績を讃えるものであることには間違いない。

 それにこの勲章は、皇帝への復讐心を保つのに丁度いい。


「皇帝クロヴィス……必ずこの手で殺してやる」


 明るい輝きを放つ勲章をアルベリクは憎々しげに握りしめた。

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