第7話 偽装の恋人

 その後、イネスはアルベリクに連れられて、辺境伯邸の使用人たちに紹介された。


 イネスはアルベリクの留学先で知り合った異国の侯爵令嬢で、傷心の恋人アルベリクを心配して訪ねてきた──という設定だ。


 アルベリクが顔色ひとつ変えずに偽の経歴や馴れ初めを語っている間、イネスは今にも嘘がバレてしまうのではないかと気が気ではなかった。


 目の前にいる執事も侍女長も料理長も、全員「ジュリエット」の頃からの顔見知り。


 何か些細な仕草や言葉遣いで自分がジュリエットだと分かってしまうのではないか、正体がバレてしまってはアルベリクの計画に支障が出てしまうのではないかと不安だったのだ。


 しかし、その心配は杞憂だったようで、屋敷の人々は皆、イネスをアルベリクの恋人として歓迎してくれた。


「アルベリク様を支えてくださる女性がいらっしゃって安心いたしました」

「しかもこのようにお美しいご令嬢とは……」

「不自由なさらないよう精一杯お世話させていただきます」

「アルベリク様をよろしくお願いいたします」




 使用人たちへの紹介を終えたイネスは、今度はアルベリクの部屋へと連れていかれた。

 ガチャリと内鍵を閉められて、思わずどきりとする。


「うっかり誰かに話を聞かれては困るからな」

「た、たしかにそうですね……!」


 男性と二人きりになるのは慣れていないため、どうも反応が過敏になってしまうようだ。


(アルベリク様がわたしに何かするはずないのだから、落ち着かなくては……)


 胸に手を当てて自分に言い聞かせていると、アルベリクはイネスのほうを見向きもせず、何かの書類をぱらぱらとめくりながら言った。


「とりあえず、君の中身が元同僚だというのはバレなかったようだな」

「はい、さすがに見た目と声がこれだけ違うと分からないのかもしれませんね」


 第一関門を無事に突破できた安心から、イネスがほぅっと溜息をつく。


 それから、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。


「──ところで、わたしをアルベリク様の恋人という設定にする必要はあったのでしょうか……。新しい侍女として雇っていただくのでは駄目だったのですか?」


 イネスの問いに、アルベリクが顔を上げた。


「君には社交界での情報収集もしてほしいんだ。だから侍女では困る。それに、俺の恋人という肩書きがあった方が社交界で動きやすいだろう」

「そういうことですか……。分かりました」


 イネスも納得し、うなずいて見せる。


 しかし、あとひとつだけ、どうしても気になることがあった。


「あの、ですが……わたしがアルベリク様の恋人というのは設定だけですよね? 本当に恋人みたいには振る舞わなくても大丈夫ですよね?」


 とてもではないが、そこまでの演技ができる自信はない。


 高位貴族同士の恋愛なら、「わたしたちは恋人同士です」と宣言するだけで、特に人前でベタベタとくっつくようなことはしなくても問題ないのではないか。


 アルベリクだって、元侍女と恋人ごっこのようなことをするなんて、本当は心外だろう。


 そう考えたのだったが、アルベリクは不満げに眉根を寄せた。


「いや、それで不審に思われては困る。ちゃんと恋人らしく見えるよう演技してくれ」

「お屋敷の中でもですか? 外でだけ恋人のふりをすれば……」

「いくら外で取り繕っても、屋敷の使用人たちから『実際は不仲そうだ』などと噂が漏れては台無しだ」

「た、たしかに……」


 アルベリクの主張は一理ある。

 どうやら彼は計画に一部の隙も作りたくないらしい。


 今は彼が自分の主人。命じられれば従うしかないが、まったく経験不足の分野であることは正直に申告しておかなければならない。


「その……恐れ入りますが、これまで恋人がいたことがないので、どうすればいいのか分からないのです。善処はいたしますが……」


 困り果てた様子を見せるイネスに、アルベリクは「なるほど」と呟くと、目の前に手を差し出した。


「右手を出してみろ」

「右手、ですか……?」


 エスコートの練習でもしてくれるのだろうかと、言われたとおりに右手を差し出すと、アルベリクはイネスの手を取って、ごく自然な動作で指先に口づけた。


 驚きすぎて声も出せないイネスに、アルベリクが真顔で告げる。


「ひとまず、俺のこういう仕草に慣れてくれればいい」

「それは……とても難しいのですが……」


 あまりに難度の高い要求に、思わず言い返してしまう。

 さすがに少し非協力的だろうかと思ったが、意外にもアルベリクはイネスの反応を受け入れてくれたようだった。


「まあ、そうやって赤くなるのも、かえってそれらしく見えるかもしれないな」


(それらしくって、どういうこと……?)


 今の自分は彼にどう見えているのだろう。


 なんとなく気になって、ちらりと鏡に視線を向ければ、そこには今にも泣き出しそうな様子で頬を染めている美しい令嬢の姿が映っていた。


 たしかに、「付き合いたての恋人」と言われれば、そう見えてしまう気がする。

 アルベリクが納得してくれた理由がよく分かった。


(それにしても整った顔ね……)


 鏡に映ったイネスの顔は精巧な人形のように整っていて、つい見惚れてしまう。

 この美しい女性が今の自分の姿だなんて信じられない。


(でも、そういえば……)


 吸い込まれそうなほど綺麗な「イネス」の姿を見て、ふと疑問に思った。


(この身体は、本当は誰のものなのかしら──)


 これほど美しい銀髪は珍しい。

 もしかすると、どこかの貴族令嬢の身体なのかもしれない。


 そこまで考えたところで、赤く染まっていたイネスの顔がさっと青褪めた。


(そうだわ。わたしの魂が入っているということは、つまり……この身体は誰かの遺体ってことよね……)


「どうした? まだ何か懸念があるのか?」


 急に深刻そうな表情になったイネスに、アルベリクが問いかける。


 イネスはどうするか一瞬迷ったものの、やはり尋ねずにはいられなかった。


「アルベリク様……わたしのこの身体は、一体どなたのものなのですか?」

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