第11話 思い出の木の下で
そよそよと穏やかな微風が吹きわたる美しい庭園。
どこからか甘い花の香りが漂ってくる中、イネスはとある場所へと向かっていた。
慣れた足取りで屋敷の裏手に進み、やがて背の高いアカシアの木にたどり着く。
まだ花は咲いておらず、銀色めいた綺麗な葉が風に揺れている。
「……懐かしいわ」
イネスはぽつりと呟くと、日陰になっているアカシアの木のそばのベンチに腰を下ろした。
背もたれに身体を預けて目を瞑ると、楽しかった日々のことが思い出される。
このベンチは、ミレイユのお気に入りの場所だった。
ここで時間を忘れて刺繍をしたり、編み物をしたり、読書をしたり。
そのうちエドガールもやって来て、ミレイユの隣に座って頬にキスをするのだ。
あの日も、ミレイユとエドガールはベンチに並んで腰かけ、楽しそうにお喋りをしていた。
『ほら、お待ちかねの手紙が届いたぞ』
エドガールがポケットから一通の手紙を取り出して見せると、ミレイユの顔が嬉しそうに綻んだ。
『まあ、アルベリクからだわ! 今日届いたの?』
『そうだ。君と一緒に読もうと思って持ってきた』
ミレイユが封筒から便箋を出して広げる。
黒いインクで綴られた文字を追うその目には、アルベリクへの愛情が滲んでいた。
『ふふっ、《最近は勉強ばかりで身体が鈍ってきたような気がします。帰国したら父上に稽古をつけてほしいです》ですって』
『それは気合いを入れて相手してやらないとだな。おっ、《母上が好きそうな絵を見つけたので今度送ります》だってさ。よかったじゃないか』
ミレイユとエドガールが楽しそうに笑い合う。
二人で顔を寄せ合って息子からの手紙を読み終えると、ミレイユが便箋に目を落としたまま、しみじみとした声で呟いた。
『アルベリクは頑張って学んでいるのね。そのうえ、私たちのことまで気遣ってくれて……』
『ああ、優しい子だな』
『早く会いたいわ』
──あの頃は、こういう穏やかで幸せな日がいつまでも続くのだと思っていた。
アルベリクが留学先から帰国し、ミレイユが嬉しそうに抱きしめて、エドガールが「成長したな」と肩を叩く。
そんな光景が見られると思っていたのに……。
イネスが瞼の裏に浮かぶエドガールに語りかける。
「エドガール様。アルベリク様は本当に家族思いの優しいお方ですね。わたし、アルベリク様のお力になれるよう精一杯頑張ります」
辺境伯家の墓所は屋敷から離れた場所にあるため、まだ墓参りには行けていないが、ここならエドガールが聞いてくれている気がした。
もしかするとエドガールは、ミレイユの救出はいいとしても、自分の復讐なんてやめろと言うかもしれない。
しかし、イネスもアルベリクもこれは譲れないので、エドガールには空の上から見守っていてもらうしかない。
「……そろそろ失礼いたしますね。このあと、アルベリク様とのレッスンがありますので」
イネスがベンチから立ち上がり、アカシアの木に向かって、練習中のカーテシーをする。
もちろん何の反応もなかったが、爽やかな葉擦れの音が自分を励ましてくれているような気がした。
「また参ります」
そう言い添えて、イネスは元来た道を戻っていった。
屋敷の窓からアルベリクがずっと見ていたことには気づかずに──。
◇◇◇
ある日の午後、イネスとアルベリクはお茶会でのマナーのレッスンを兼ねて、二人でティータイムを過ごしていた。
(紅茶を淹れるのは得意だけれど、優雅に飲むのは案外難しいのね……)
ティーカップの取っ手を持つときの手の形や、カップの傾け方、音を立てない置き方など、いろいろ気を遣うことが多くて紅茶の味がよく分からない。
これも何度も練習して身体に叩き込むしかなさそうだ。
(アルベリク様の所作は本当に上品で素敵だわ……)
向かいの席でアルベリクが紅茶を口にする姿に見惚れていると、ふいに目が合って、びくりと手が震える。
そのせいでティーカップとソーサーがガチャリと音を立て、イネスはしまったと思った。
「失礼いたしました……」
アルベリクが小さく嘆息する。
「所作は良くなってきているから、あとはすぐ緊張する癖を直せるよう努めてくれ」
「はい……」
イネスがしゅんと小さくなっていると、アルベリクが「そういえば」と切り出した。
「君の実家のことについて伝えるのを忘れていた」
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