第42話 さらなる予想外
「イネス様、こちらのお席にどうぞ」
ブリジット・オドラン伯爵令嬢に連れてこられたのは、二階のバルコニーだった。
カーテンを開けると、そこにはテーブルと椅子が置かれ、ワインまで用意されている。
「ブリジット様、この場所は一体……?」
おそらく皇帝が用意させたものだろうとは想像がついたが、何も知らない純粋なふりをして尋ねる。
「ふふふ、ここは特別な夜を過ごすためのお席ですわ。あっ、いけない、わたくし忘れ物をしてきてしまいました。急いで取ってまいりますので、こちらのワインでも飲んで少しお待ちいただけますか?」
ブリジットが微妙な演技をしながら、度数の高いワインをグラスに注ぐ。
きっと皇帝が来る前に酔わせておこうという算段なのだろう。
あいにく、イネスは人形の身体であるため酒に酔うことはないのだが。
イネスがにっこりと笑って返事する。
「分かりました。早く戻って来てくださいね」
「ええ、もちろんです。では、失礼いたしますわ」
計画が上手くいった喜びが隠しきれないブリジットが、口もとを震わせながらお辞儀をし、カーテンの向こうへと消えていく。
(ありがとうございます、ブリジット様。私をここまで連れてきてくださって)
計画が順調で嬉しく思っているのはブリジットだけではない。
イネスにとっても、この流れは喜ばしいものだった。
(早く貴方に会いたいわ……皇帝クロヴィス)
そのとき、カーテンがパッと開かれた。
さっそく皇帝のお出ましかと振り返ったイネスだったが、そこにいたのは皇帝ではなく、三人の貴族令嬢だった。
「イネス・コルネーユ侯爵令嬢、少しよろしくて?」
どの令嬢とも面識はないはずだが、向こうはイネスのことを知っているらしい。
そして、明らかに敵意を持っている。
「……すみません、どのようなご用件でしょうか? 今は別のご令嬢と約束をしておりまして」
やんわりと断ると、三人のうちの真ん中の令嬢がキッと眉を吊り上げた。
「あなた、ちょっとでしゃばりすぎではなくて? あなたはオリヴィエ辺境伯の恋人なのでしょう? それなのに皇帝陛下のダンスのお相手までして……」
「そうよ! オリヴィエ辺境伯の恋人になれただけでは飽き足らず、陛下にまで手を出すなんて信じられないわ!」
「あなたがいなければ、コリンヌ様が陛下とダンスを踊れたはずなのに! 調子に乗らないで!」
どうやら色々と曲解されているようだが、要するにこの三人の令嬢たちは、イネスが皇帝に近づくのが気に食わないらしい。
おそらく、イネスを恐ろしい顔で睨んでいる真ん中の令嬢が「コリンヌ」で、横の二人はその取り巻き。
コリンヌは皇帝に憧れているか、皇后の座を狙っているのかもしれない。
(皇帝はろくでもない男だからやめておいたほうがいい、なんて言えないし……)
とりあえず、もうすぐ皇帝もやって来るだろうから、ここは穏便に済ませて早めに退場してもらったほうがいい。
「ダンスのことは申し訳ありません。陛下からお誘いいただいたのでお受けしただけで、他意はありませんから……」
あくまでも礼儀を守っただけで、皇帝とどうにかなろうと思っている訳ではないと匂わせたつもりだったが、イネスの返事にコリンヌは激昂した。
「何よ! 自分は陛下から選ばれたって自慢したいわけ!? あんたみたいな女……!」
コリンヌがテーブルに置いてあった赤ワイン入りのグラスを奪って高く掲げる。
「コリンヌ様! こんな女、ワインまみれにしてしまいましょう!」
「ドレスが汚れれば、もう夜会にはいられなくなりますもの!」
取り巻き二人も囃し立て、コリンヌがにぃっと嫌な笑みを浮かべる。
(いけない……! こんなところで計画を台無しにされる訳には……!)
イネスが椅子から立ち上がって避けようとしたとき、こちらに浴びせられるはずだったワインは、なぜかコリンヌの頭に降り注いだ。
「きゃあぁぁっ!!?」
「コ、コリンヌ様!?」
悲鳴を上げる三人の令嬢の後ろから、ひどく冷めた低い声が響く。
「身の程知らずどもが」
皇帝に気づいた令嬢たちの顔がみるみる青褪めていく。
「こ、皇帝陛下……! これは違うのです! 私はコリンヌ様に言われて嫌々従っていただけで……!」
「そうです、伯爵家の命令には逆らえず……」
「あ、あなたたち! 一体何を……!?」
見苦しく仲間割れを始める令嬢たちを、皇帝が心底
「今すぐここから立ち去れ。そして、二度とその汚らわしい姿を見せるな」
実質的な社交界追放を言い渡され、令嬢たちは言葉もなく俯くと、嗚咽を漏らしながらバルコニーから立ち去っていった。
「…………」
無言で立ち尽くすイネスに、皇帝が足音を立てて近づく。
そして、空になったワイングラスをテーブルに置くと、イネスの顎に手を添えて、クイと持ち上げた。
「怪我はしていないようだな」
「……はい、おかげさまで」
図らずも皇帝に助けられた格好になってしまって悔しいが、それを顔に出す訳にはいかない。
イネスは悪意にさらされて傷ついた令嬢のように震えてみせた。
「助けていただいて本当にありがとうございました。陛下が……クロヴィス陛下がいらっしゃらなかったら、わたし……」
ご希望どおりに名前を呼びながら、潤んだ瞳で見上げると、皇帝は満足そうな笑みを浮かべた。
「怖い思いをさせてすまなかったな。あの者たちは生きる価値もない。全員処刑してやろうか?」
皇帝が薄い笑みを保ったまま、平然とそんなことを言う。
たしかに、勝手に誤解して、他人に危害を加えようとする行為は褒められたものではないし、罰を受けることになっても仕方がないだろう。
しかし、処刑されるほどの重罪などでは全くない。
(やっぱり、他人の命なんて彼にとってはどうでもいいんだわ)
脳裏に、エドガールの最期の姿が蘇る。
イネスはふつふつと湧きあがる怒りを抑え、切なげな表情で首を横に振った。
「いえ、そこまでなさらなくて大丈夫ですわ。あのご令嬢たちは陛下をお慕いするあまり、ダンスの相手を務めたわたしに嫉妬してしまったようです。結局、何事もなく済みましたから、これ以上は望みません」
皇帝はやや残念そうに嘆息すると、イネスの頬を指先でさらりと撫でた。
「イネスは優しいな。そなたが望めば何でもしてやるのに」
イネスが、頬を撫でる皇帝の指に自身の手を重ねて微笑む。
「何でもしてくださるというなら、もう少し二人きりでいてくださいませんか? わたし、お酒に酔ってしまったみたいで……」
しっとりとした眼差しで見つめると、皇帝の赤い瞳が妖しく煌めいた。
「アルベリクはいいのか?」
「……今は、クロヴィス陛下と一緒にいたい気分です」
「そうか、では共に過ごそう」
皇帝がイネスを椅子に座らせ、愉悦の笑みを浮かべた。
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