第31話 不安定な境界線で
「あの、アルベリク様……!?」
イネスから泣きそうな声で名を呼ばれる。
おそらく、急に手のひらに口づけられて驚いているのだろうが、残念ながら離してやることはできない。
イネスの頬が赤く色づくまで魔力で満たして、彼女がどこにも消えたりしないと確かめられるまでは。
(たしか、手の甲よりも、手の平のほうが魔力の吸収率が高いはず……)
本来、魔力供給に最も効率的な方法である、唇同士を合わせる口づけを避ける程度には理性を保っている。
しかし、イネスを失うかもしれないことへの恐怖と、早く繋ぎとめて安心したい気持ちは抑えられなかった。
イネスの手を痛めないよう優しく、けれどしっかりと握ったまま、自分の口もとへと押しつけ続ける。
彼女も、何を言っても無駄だと悟ったのか、青白く柔らかな手から強張りが解けていった。
二人きりの部屋で目を合わさず、言葉も交わさず、ただ熱を帯びた唇と手の平だけが触れ合ったまま、静かに時間が流れていく。
──数分後、アルベリクがようやくイネスの手の平から唇を離した。
先ほどは、思ったとおりイネスの中の魔力がひどく弱まってしまっていたが、溢れるほどの魔力を分け与えた今は、彼女の指先まで魔力が行き渡ったのを感じる。
だから、もう心配せずとも大丈夫だろう。
少なくとも、今日は。
「……気分はどうだ?」
恐る恐る顔を上げ、イネスの血色を確認する。
青白かった頬には赤みが差し、ぼんやりとしていた瞳にも光が戻った気がする。
あとは、彼女が返事をしてくれれば、やっと安心して息ができる。
縋るような眼差しでイネスの美しい顔を見つめれば、彼女はピンク色の頬をさらに紅潮させて、もう一度アルベリクの名を呼んだ。
「ア、アルベリク様……なぜいきなりあんなことを……」
戸惑い、恥じらうように、長い睫毛を伏せて目を逸らす。
その仕草がとてもイネスらしくて、イネスがいつもどおりに存在していることが実感できて、アルベリクは堪らず彼女を抱きしめた。
「……よかった」
イネスの身体は精巧な作り物で、彼女から感じる温もりさえ、アルベリクが与えた魔力の熱に過ぎない。
しかし、今この腕で、たしかに彼女の魂を抱きしめている。
彼女のわずかな身じろぎや息づかいが、それを証明してくれている。
そのことが、アルベリクの心をようやく落ち着けてくれた。
ほっとして、でもやはりわずかな不安は残っていて。
アルベリクはイネスの首もとに顔を埋めて呟いた。
「どこにも行かないでくれ、イネス……」
◇◇◇
(アルベリク様、どうなさったのかしら……)
アルベリクの腕の中で、イネスは戸惑っていた。
先ほどから、明らかに様子がおかしい。
急に血相を変えたと思ったら、手の平に口づけし、いつまでも魔力供給をやめなくて。
やっと終わったかと思えば、今度は泣きそうな顔をして抱きしめてきて。
何が彼をそうさせたのだろう。
「……アルベリク様」
イネスが呼びかけると、アルベリクはハッとしたように顔を上げた。
「イネス、すまない。苦しかったか?」
「いえ、大丈夫です。ただ……」
アルベリクの腕が緩まっていくのをどうしてか少し寂しく思いながら、彼の目を見て問いかける。
「わたし、魔力が少なくなっていたのでしょうか? 読書の途中で頭がぼうっとするような気はしていたのですが……」
そのときは、読み慣れない難解な本を読み始めたせいで眠くなってしまったのかと思っていた。
けれど、アルベリクが急に魔力供給を始めたことを考えると、体内の魔力量が足りなくなっていたせいなのかもしれない。
(でも、こまめに補給していただいているはずなのに変ね)
小首を傾げて返事を待つイネスだったが、アルベリクはなかなか答えてくれない。
「アルベリク様? もしかして魔力を供給したせいでお疲れに……?」
今回は普段よりもだいぶ長い時間がかかっていたから、その分、アルベリクの負担も大きかったはずだ。
「申し訳ありません、わたしのせいで──」
「違う、俺は平気だ。俺なんかより、君のほうが……」
アルベリクが、また辛そうな表情でイネスを見つめ返す。
なぜ、そんな心許ない目をするのだろうか。
まるで、暗闇の中のともしびに「消えないで」と祈る人のように──。
(……まさか)
イネスの脳裏に、ひとつの可能性が思い浮かぶ。
考えたくもないこと。起きてほしくないこと。
しかし、おそらくそうであろうこと。
イネスは不安を閉じ込めるように胸を押さえ、アルベリクに尋ねた。
「もしかして……わたしはまた死ぬのですか?」
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