第30話 青白い頬、小さな手

 翌日。アルベリクが部屋の机で書類と格闘していると、コンコンとノックの音が聞こえた。


「だめだ……間に合わなかったか」


 アルベリクが肩を落として、扉の向こうの客人を迎えに行く。


 襟を整えて扉を開けると、そこには、いつものようにイネスが美しい姿勢でアルベリクの出迎えを待っていた。


「アルベリク様、お邪魔いたします」

「ああ、どうぞ」


 いつもどおり、まるで壊れものを扱うかのような優しさでイネスを部屋へと招き入れ、扉を閉めて鍵をかける。


 そして、本来なら彼女のレッスンの成果を見て、労いの言葉をかけてやりたいところだったが……それが叶う状況ではなく、アルベリクは申し訳なさそうに眉を寄せた。


「すまない、イネス。実は確認が漏れていた書類があって……。急ぎのものだから、今確認してもいいだろうか」


 普段は毎日の仕事を完璧にこなしているアルベリクだったが、昨日は皇帝とミレイユのことで色々と考え事が増え、珍しく書類のことを失念してしまったのだった。


 イネスも意外に思ったようで、わずかに目を見張る。けれど、すぐに気遣うような表情を浮かべて了承してくれた。


「もちろんです。わたしはソファで本でも読んでいますので、こちらは気にせずお仕事をなさってください」

「……ありがとう。ここの本棚から好きに取ってもらって構わない」


 アルベリクは、イネスを本棚の前に案内すると、面倒な書類の山が待つ机へと戻った。


 イネスに失態を明かさなければならなかったのが悔しいし、せっかくイネスと二人きりで過ごせる時間を無駄にしてしまったのも残念でならない。


 とは言え、このまま書類を放置するわけにもいかない。


 アルベリクは渋々、報告書の文面に目を通して、ややこしい文言を読み解き始めた。

 可能な限り急いで確認し、承認の署名を記して押印する。


 そんなことを二回繰り返したところで、イネスが一冊の本を抱えて目の前のソファへと座った。


 何の本を読むのだろうかと興味を引かれ、ちらりと視線を移動させると、革張りの表紙には『帝国における辺境地防衛の重要性』という題名が箔押しされていた。


(しまった……)


 心の中で舌打ちして、本棚に並ぶ書物の背表紙を睨みつける。

 どれもこれも領地の統治や戦争、魔獣などに関する本ばかりで、イネスが好みそうな内容のものはひとつもなかった。


 すぐに使用人を呼んで、イネスが読みやすそうな本を持って来させようかと思ったが。


(意外に熱心に読んでいるのか……?)


 イネスはおもむろに本を開いて頁をめくると、無心で文字を追っている。

 もしかするとアルベリクが知らなかっただけで、イネスもこういう類の本を好んで読むのかもしれない。


 それなら、せっかく集中して読書しているのを邪魔しては良くない。


(……俺は自分の仕事を片付けるとするか)


 アルベリクはまた書類に視線を戻すと、集中力をかき集めて確認作業を再開した。




◇◇◇




(これで終わりか……)


 かつてないほどの速読で確認し、なんとかすべての書類を片付けた。

 これでようやくイネスと会話ができる。


 ペンを置いて顔を上げ、ソファで姿勢よく読書するイネスの横顔を見つめる。


 彼女の整った造形も見惚れる要因のひとつだが、アルベリクは何より彼女の優しさと真面目さを感じる眼差しが好きだった。


 イネスの瞳は金色だが、ジュリエットのときは何色だっただろうか。

 今とは異なる色合いでも、きっと変わらず、心惹かれる眼差しだったに違いない。


(会話なんてしなくても、こうして横顔を眺めているだけで満たされるな)


 自然と顔が綻ぶアルベリクだったが、そうしてイネスを見つめているうちに、あることに気がついた。


(さっきからずっと同じ頁を読んでいる……?)


 間違いない。

 最初のうちはパラパラと頁をめくる音が聞こえていたが、今は完全に止まっていて、イネスの視線はただ一点に注がれている。


 やはり興味が持てない内容だったのだろうか、と一瞬考えたが、すぐに思い違いに気がついた。


 アルベリクが立ち上がってイネスのもとへと近寄る。


「イネス、どうしたんだ? 具合が悪いんじゃないか?」


 ぼうっとしていたところに突然話しかけられたイネスは、驚いて肩を揺らした。


「あっ……いえ、大丈夫です」

「大丈夫なわけない。こんなに顔色が悪いのに。風邪でも引いたのだろうか」


 いつもならほんのり薔薇色に色づいている頬が、今はすっかり青白くなっている。

 心配しながらイネスの顔を覗き込むと、彼女は困ったように眉を下げ、かすかな笑みを浮かべた。


「アルベリク様。わたしの身体は人形なのですから、風邪など引くはずがありません。そんなに心配なさらないでください」

「しかし……」


 イネスは平気そうに振る舞っているものの、今にも倒れてしまいそうなほど儚げに見える。


(風邪ではなくても、魔力が足りていないのかもしれない)


 イネスの血色のよさは、すなわちアルベリクが与えた魔力の濃さだ。赤い魔力が身体の隅々に行き渡って、彼女の生気となり、動力源となっている。


 その色が薄まって見えるということは、彼女に蓄えられた魔力が少なくなっているに違いない。


(毎日彼女に触れて魔力を供給しているのに、なぜ……?)


 全身が冷たくなり、言い知れぬ恐怖が襲ってくる。


 イネスの身体である魔導人形とジュリエットの魂を融合させたのは、元々存在する魔法ではなく、アルベリクが考案した方法によるものだ。


 いくら皇家の血を引いて魔力が強いとは言え、魔法に関して専門というわけでもない。イネスに施した魔法だって、どこか不備があってもおかしくはなかった。


(もし俺の魔法に欠陥があって、イネスの身体から魔力が漏れてしまっているのだとしたら……)


 魔導人形の身体から魔力が無くなってしまえば、閉じ込めていたジュリエットの魂は身体から離れてしまう。

 その後、再び彼女の魂を捉えられるかも分からない。


 万が一、そんな事態になってしまったら……。


(彼女がいない世界など考えられない。もしそうなってしまえば、俺は今度こそ正気を失ってしまう──)


「あっ、アルベリク様……!?」


 目の前で、イネスがひどく狼狽したように悲鳴をあげる。


 気がつけば、アルベリクはイネスの小さな手のひらに口づけていた。

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