第17話 二転三転
「本当に美味しかったですね」
食後の紅茶を一口飲み、イネスが満足げに溜息をつく。
料理は期待以上の味だったし、アルベリクとも少し打ち解けられたような気がする。
今のイネスは満腹感と妙な自信でいっぱいだった。
「わたし、今日でもう倒れるのは卒業できる気がします」
「……本当か?」
アルベリクからは疑わしげな目が向けられるが、イネスは余裕のある表情で見つめ返す。
「はい、もう大丈夫です」
おそらく、今までよく倒れていたのは、自分の性格のせいばかりではなかったのだ。
原因はたぶん、主人であり、偽装恋人であるアルベリクに対して、ほんのわずかに恐れを抱いていたから。
彼には「ミレイユとエドガールの息子」という信頼はあったが、アルベリク自身については知らないことが多く、威圧的な雰囲気に萎縮してしまうところもあった。
だから、美男子から恋人扱いされるという緊張に加え、不慣れな人物からの過度の接触という緊張から、足が震えて立てなくなってしまっていたのだと思う。
しかし、今日の外出で、少しだけ素のアルベリクを知ることができた。
今は心に負った傷を隠そうと無理をしているだけで、本当のアルベリクは、きっと素直で親しみやすい人なのではないだろうか。
そう考えると、彼からのスキンシップも恥ずかしくはあるものの、倒れずに受け入れられる気がした。
「自信が出てきたので、他のことにも挑戦してみませんか?」
「いいだろう。君は何がしたい?」
「そうですね……」
イネスがきょろきょろと周囲の恋人たちを見回す。
すると、先ほど「あーん」をしていた男女が、今度はデザートを食べさせ合っているのが見えた。
「エミリー、ほら、ここにクリームがついてるよ」
「え〜、どこですか〜? ジル様がとってください〜」
「まったく仕方ないなぁ、エミリーは」
ジル様と呼ばれた令息が、口元に生クリームをつけたエミリーのほうへ身体を傾ける。
イネスは彼がナプキンで口元を拭いてあげるのかと思ったのだが……。
彼はエミリーの口元の生クリームを人差し指で掬い取り、そのままペロリと舐めてしまった。
(!!?)
「も〜、ジル様ったら〜!」
「あはは、美味しそうだったからつい」
幸せそうに笑い合うジルとエミリーを見つめながら、イネスが固まる。
(い、今のを試してみる……?)
頭の中で、ジルとエミリーをアルベリクとイネスに置き換えて想像してみる。
イネスが口元に生クリームをつけ、白々しく自分では取れないからとアルベリクにお願いする。
彼は呆れながらも優しい指づかいでイネスの唇に触れ、生クリームを拭い取る。
そして、イネスの唇に触れた指先を自分の口に持っていって──……
(待って、無理……!)
想像しただけで恥ずかしくて頭が沸騰してしまいそうだ。
さっきまでは何でもできそうなほどの自信にあふれていたが、ただの気のせいだった。
やはり一気に階段を駆け上がるよりも、一段ずつ着実に進んでいくべきだろう。
頭の中で結論づけていると、アルベリクも隣の席の様子を窺っていたようで、
「生クリームを取ってほしいのか?」
「ちっ、違います!」
生クリームは今のイネスには難易度が高すぎる。
(でも、そういえば……)
ジルとエミリーのやり取りで、ひとつ気づいたことがある。
イネスは「これだ」と思って提案してみた。
「アルベリク様。わたしのことを名前で呼んでいただけませんか?」
先ほどの二人はお互いに「ジル様」「エミリー」と呼び合っていた。
恋人同士なら当然だろう。
しかし、思い返してみれば、イネスはアルベリクから名前で呼ばれたことがなかった。
さすがに使用人たちに紹介するときは呼んでくれたが、それは「イネス・コルネーユ侯爵令嬢」と、フルネームに肩書きをつけた味気ないものだ。
そして、それ以外のときは、だいたい「君」やら「彼女」やらの呼称で、「イネス」とは口にしないのだ。
(アルベリク様がつけてくださった名前なのに……)
もしや、本当の名前はジュリエットなのに、イネスと呼ぶのは申し訳ないなどと考えてくれているのだろうか。
(でも、今のわたしはイネスだもの。それに、本当に恋人らしく振る舞うなら、名前だって呼んでもらったほうがいいはずよね)
イネスがアルベリクの目を見つめ、もう一度お願いする。
「わたしをイネスとお呼びください」
すると、先ほどまでイネスを揶揄う余裕を見せていたアルベリクが、わずかに眉を寄せた。
その青い瞳に陰が落ち、何かをためらっているかのように頼りなく揺れる。
(──どうなさったのかしら。名前を呼んでもらうのはよくなかった……?)
理由は分からないが、アルベリクは明らかに乗り気ではなさそうだった。
別のお願いに変えたほうがいいだろうかと悩んでいると、斜め前の席がにわかに騒がしくなった。
「さっきから他の女ばっかり見て! この浮気者!!」
「ち、違うよ、見てない! 僕はブリジット一筋さ!」
「嘘つき! ずっと鼻の下を伸ばしてチラチラ覗き見してたじゃない!」
どうやら、男性が他の令嬢によそ見をして、恋人の女性が怒ってしまったようだ。
恋人同士になるとこんなこともあるのね、とイネスが思っていると、なんとお怒り中の女性が立ち上がり、ビシッとイネスを指差した。
「あんな女のどこがいいのよ! ちょっと綺麗な銀髪で、色白で、スタイルが良くて、美人で──……何よっ、あんなのに私なんかが勝てるわけないじゃないっ!」
「ブ、ブリジット……たしかに彼女は物凄く美人だけど、僕には君くらいのほうが丁度いいから……」
「何よそれ! 全然慰めになってないわよ!」
ブリジットと呼ばれた令嬢が泣き出し、恋人の男性は焦ってオロオロしている。
そのうち、ほかのテーブルの客たちも、こちらを見ながらヒソヒソと囁きだす。
「行こう。俺たちはいないほうがいいだろう」
「そのようですね……」
アルベリクに手を取られて席を立つ。
「すみません、こんなことになってしまって……」
「いや、君のせいじゃない。それに、おかげで俺たちのことも印象づけられただろう」
たしかに、あんな騒ぎになれば、店中の人たちがイネスたちのことを覚えているだろう。
これから社交界で噂になり、イネスに興味を持った人がお茶会に招待してくれる可能性もある。
そう考えると、こうして騒動になってよかったのかもしれない。
「支払いを済ませるから、君は外で待っていてくれるか」
「はい、分かりました」
アルベリクに返事をして、イネスが店の外に出る。
客たちの突き刺すような視線から解放され、ほうっと安堵の溜息をついた。
(……でも、名前で呼んでもらうお願いは、結局うやむやになってしまったわね)
ついさっきの会話でも、アルベリクは「君」と言い、「イネス」と呼んではくれなかった。
また別の機会に頼んでみるしかないだろうか。
店内にいるアルベリクをちらりと見ると、丁度支払いを終えてこちらに来るところだった。
(ふふ、ここで手を振ってみたら恋人らしいかしら)
そんなことを考えて手をあげたところで、通りの向こうから「きゃあっ!」という悲鳴が聞こえた。
えっ? と思った瞬間、上から大きな植木鉢が落ちてきて、目の前で粉々に割れた。
「おい! 大丈夫か!?」
アルベリクと店員が慌てた様子で駆け寄ってくる。
「お客様、お怪我はございませんか!?」
「……ええ、怪我はしていないようです」
泣きそうな顔で心配する店員を安心させるように、イネスが微笑む。
どうやら二階に置かれていた鉢が何かのはずみで落下してしまったようだった。
店員が平身低頭で謝罪し、汚れたドレスの弁償について話し出すと、アルベリクが制止した。
「その話はまた後日させてくれ。ひとまず今日は彼女を連れて帰りたい」
「か、かしこまりました……」
アルベリクがイネスの手を取り、馬車へとエスコートする。
「色々あって疲れただろう。屋敷に戻ったらすぐに休むといい」
馬車が走りだし、馬蹄と車輪の音が車内に響く。
「……どうした? ずっと黙り込んだままだが、どこか調子が悪いのか?」
なぜか先ほどから一言も話さないイネスを不思議に思ったアルベリクが、戸惑った表情で問いかける。
返事を望む彼に金色の瞳を向けながら、イネスはようやく口を開いた。
「アルベリク様、わたしに何か隠していることがあるのではないですか?」
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