第44話 最後の駆け引き

 薄っすらと瞼を開けると、真っ暗だった視界がほんの少しだけ明るくなった。


(ここはどこ……?)


 身体にだるさを感じるが、意識は徐々にはっきりとしてきた。

 

(……わたし、どうなったのかしら)


 バルコニーで皇帝に魔法で眠らされたあと、どこかの部屋に運ばれたらしい。

 今は天蓋付きのベッドの上に寝かされているようだった。

 

 こんなところで時間を無駄にしている場合ではない。

 早くここから脱出しなくては。


 二、三度瞬きをしてから、ゆっくりと起き上がる。

 すると、すぐ隣で横たわる人影に気がついて、イネスはびくりと肩を揺らした。


(ミレイユ様!?)


 人影の正体はミレイユだった。

 ぴくりとも動かず、ただ静かに眠っている。


「ミレイユ様……!」


 思わず手を握って名前を呼ぶと、背後から先ほどまで会話相手だった男の低い声が聞こえた。


「イネス、もう起きたのか?」

「皇帝クロヴィス……!」


 即座に振り返って睨みつけると、皇帝は興味深そうに目を細めた。


「そなたになら呼び捨てにされるのも悪くはないな。……それにしても、睡眠薬が効かず、私の魔法もすぐに解けるとは不思議だ。そなたの持つ魔力の影響だろうか」


(皇帝はわたしに魔力が流れていることに気づいていたのね……)


 しかし、その魔力はイネスのものではなく、アルベリクの魔力だとは分かっていないようだ。


 それに睡眠薬が効かなかったのは、イネスが人形の身体だからであるし、魔法がすぐに解けたのは、おそらく元々かかっていた保護魔法のおかげかもしれない。


(眠りの魔法が解けてよかったけれど……)


 この部屋にミレイユと皇帝がいるということは、アルベリクは救出に間に合わなかったということだ。


(探すのに手間取られているのかもしれないわ)


 部屋の様子を窺うに、この部屋は前にイネスがミレイユに会わせてもらったときの部屋とは違うようだ。


 当然、その可能性も考えてはいた。

 万が一、ミレイユの居場所が変えられていたとしても、皇宮の中にいてくれれば、アルベリクがミレイユの魔力を探って特定できるはずだった。


 だから、今のこの状況は、イネスが皇帝の暗殺をしくじってしまったせいだ。


(こうなったら、作戦変更よ)


 イネスは深呼吸すると、暗がりで妖しく光る赤い瞳を真っ直ぐに見据えた。


「ここはどこですか? これから何をなさるおつもりだったのですか?」

「ふむ。私に怒っているのか?」

「そうではありません。陛下が何をお考えなのか知りたいだけです」


 焦りと苛立ちを抑え、落ち着いた口調で返事する。

 皇帝は何かを考えるように一度目を逸らすと、またイネスに視線を戻して口もとに弧を描いた。


「そなたがアルベリクではなく、私を選ぶなら教えてやろう」

「……本当ですか?」

「ああ、そなたに嘘はつかない」


 この男の誓いなどとても信用できないが、ここは信じるふりをするしかない。

 イネスがこくりと頷いた。


「分かりました。わたしはクロヴィス陛下を選びます」

「本当か? そなたにアルベリクを捨てられるのか?」

「陛下のためなら。わたしを信じてください」


 切なげに眉を寄せると、皇帝はわざとらしく顎に手を添えた。


「そうだな、私に口づけをしてくれるなら信じよう」

「……それで信じていただけるなら」


 イネスが微かに微笑む。


「陛下、こちらへ来ていただけますか? まだ足に力が入らなくて」

「いいだろう」


 皇帝がゆっくりと近づき、ベッドに手をついた。

 ギシッと音が鳴り、皇帝の重みでわずかにマットレスが沈む。


 イネスも皇帝に近づくように身体を寄せ、皇帝の頬に片手を当てた。


「……恥ずかしいので目を瞑っていただけますか?」

「仕方ない」


 言われたとおりに目を閉じた皇帝に顔を寄せ、イネスが嬉しそうに口もとを綻ばせる。


「こうして陛下に触れられて幸せです。これで本当に──」


 イネスが髪に差していた髪飾りをするりと抜いて逆手に持つ。


 髪飾りの先端は鋭く削られ、ワインに入れたものと同じ毒が塗られていた。

 もし毒を飲ませられなかった場合に備えて、もう一つ手を用意していたのだった。


 イネスが毒のついた髪飾りを皇帝の首元へと静かに振り下ろす。


「お別れよ、クロヴィス」


 髪飾りの先端が皇帝の首に触れようとしたとき。

 首元から赤い魔法が盾のように広がって、振り下ろした髪飾りは弾き飛ばされてしまった。


「……っ!?」


 驚くイネスに、皇帝が残念そうに眉を下げて笑う。


「せっかく信じようとしたらこの仕打ちとは。女というのは恐ろしいな」

「──最初からわたしを疑っていたのね」

「半分くらいは信じようとしていたさ」


 イネスの睨みを皇帝はなんでもない風に受け流す。


「こうなってしまって残念だが、なかなか楽しませてもらったよ」

「貴方なんて、ミレイユ様がいなければ魔法も使えないくせに……! ミレイユ様を返しなさい!」


 イネスが大声で叫ぶと、皇帝が片眉を上げた。


「そなた、指輪のことに気づいていたか」

「ええ、魔力を奪う指輪でしょう? 全部知っているわ! 今夜、ミレイユ様の魔力を犠牲にして女神の涙を使うつもりだということも!」

「ほう、そこまで知っていたとは。思ったより賢いのだな」


 皇帝が意外そうに目を見開いた。


「そなたの賢明さに敬意を表して、いいものを見せてやろう」

「いいもの……?」

「せっかくだから、本物を見たいだろう?」


 皇帝が両手を宙に掲げる。

 手の平から赤い魔力がほとばしり、皇帝を中心として赤い光に包まれた。


「さあ、行こう」


 そのとき、部屋の隠し扉が勢いよく開かれた。


「待て!」


 現れたのは、アルベリクだった。


「アルベリク様……!」


 アルベリクが駆け寄り、赤い光の中に飛び込む。

 それと同時に、皇帝の魔法が発動した。


 魔力の光が一際強く光って消失すると──その場にいたはずの四人の姿は、跡形もなく消えていた。

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