第19話 許されないこと

「イネス、街に出かけたからマカロンを買ってきた。前に食べたいと言っていただろう?」

「覚えていてくださったんですね。ありがとうございます、アルベリク様」


 お礼を言われたアルベリクが、優しい眼差しを返す。


(最近、アルベリク様との心の距離が少し近づいたような気がするわ)


 着替えのために部屋へ戻るアルベリクの背中を見送りながら、イネスは感慨深い気持ちになった。


 二週間前のあの日、アルベリクが名前を呼んでくれるようになってから、彼の態度が少しずつ変わってきたように感じる。


 以前のアルベリクは、イネスについて必要以上に深く知ろうとしなかった。

 おそらく、無駄に情を持たないようにしたかったのだろう。


 しかし、今はこうしてイネスの好きなお菓子を買ってきてくれるし、昨日はマナーの練習ばかりではなく、たまには好きなこともしたらいいと言ってくれた。





『辺境伯領のお屋敷の庭園も綺麗でしたが、こちらの庭園も素敵ですね。見慣れないお花も咲いていて、つい押し花にしたくなってしまいます』


 マナーのレッスンの休憩中に、ふとそんなことを話題に出してみると、アルベリクが『押し花?』と聞き返してきた。


『はい、実は押し花を作るのが趣味だったのです。それを栞やキャンドルにしたりするのも楽しくて……』

『そういえば、母からの手紙に押し花が添えられていたことがあったが、それも君が作ったものだったのだろうか』

『もしかするとそうかもしれませんね。ミレイユ様にも何度か差し上げたことがありますので』

『そうか……イネスは押し花作りが上手なんだな』

『あ、ありがとうございます』


 趣味を褒めてもらえたのが嬉しいけれど恥ずかしくて、イネスが頬を染める。

 アルベリクがふいと窓の外の庭を見下ろした。


『……また押し花作りをすればいい。この庭の花も好きに摘んで構わない』


 思いがけない許可に、イネスがぱちぱちと瞬く。


『いいのですか? ただの趣味なのに……』

『マナーの練習ばかりではなく、たまには好きなこともすればいい。それに、いい趣味だと思う』

『ありがとうございます……』

『押し花ができたら、ひとつくれ』

『あ、では……栞を作って差し上げますね。アルベリク様はよく本をお読みになっていますから』

『ああ、ありがとう』


 アルベリクの綺麗な青い瞳が、柔らかく細められる。

 前に感じた水底のような暗さはなく、月明かりに照らされた水面のように煌めいて見えて、イネスは思わず目を逸らしてしまった。




 昨日の出来事を思い返すと、どうしてか顔が熱くなってしまう。

 この身体に血液は流れていないはずなのに、代わりに流れる魔力が反応しているのだろうか。


 そういえば、アルベリクが魔力供給のために触れる仕草も、以前よりずっと優しくて、気遣いを感じるようになった。


 彼に恋人のように扱われ、肌に触れられて魔力の熱が広がるたびに、自分の心も熱くなっているように錯覚してしまいそうになる。


 今まで恋なんてしたことはないけれど、もし恋に落ちたら、あんな風に身体中が熱くなってしまうのかもしれない。


(間違ってもアルベリク様に恋なんかしたらいけないわ。アルベリク様がお優しいのは恋人を演じているからだし、人形として蘇らせた負い目があるから。わたしに触れるのも、単に魔力を供給する必要があるからでしかないわ)


 それに、自分は人間ではないのだから、彼と結ばれる未来はない。


 人形が恋をするなんて、絶対に許されない。



◇◇◇



 アルベリクは自分の部屋に戻ると、どさりとソファに腰を下ろした。

 そうして、先ほどマカロンを買ってきたと伝えたときのイネスの笑顔を思い出す。


「イネス」と名前を呼ぶようになってから、彼女の表情が豊かになったように思う。


 好きなお菓子に喜んだり、趣味を褒められて嬉しそうにしたり。


 以前よりも生き生きとしている……というのは気のせいで、ただ彼女に対する自分の見方が変わっただけかもしれないが。


 彼女に感情移入しないようにと作っていた壁が、名を呼ぶことで崩れ去ってしまった。


 気づけばイネスの色々な表情を知りたくて、彼女を目で追っている自分がいる。


 少し前までは、彼女を復讐のための人形としか思っていなかったのに。



 ──いや、今思えば、無理にそう思い込もうとしていたのかもしれない。



 自身が殺されたことの恨みより、アルベリクの両親のために懸命に尽くしてくれる姿に、心が動かされない訳がなかった。


 気を緩めたら、すぐに彼女に絆されてしまいそうで不安だった。

 だから、イネスと接するときは常に「彼女は人形なのだ」と自分に言い聞かせていた。


 しかし、そんなことをしている時点で、すでに彼女に心を奪われていたのかもしれない。


「……滑稽だな」


 手駒として蘇らせたはずの彼女に、術者本人が魅せられてしまうなんて。



 だが、自身の復讐のためにイネスの魂を利用して巻き込んだ自分に、彼女を好きになる資格などあるはずもない。


 彼女が自分との触れ合いで恥じらうような反応を見せるのも、純粋な性格だから照れてしまうだけだ。勘違いしてはいけない。


(そう分かってはいるが──)


 頭では理解しているのに、だんだんと気持ちを抑えることが難しくなってきている。


 魔力供給も、本当は唇への口づけのほうが隔てるものがなく効率的だから、ゆくゆくはそうしようと思っていたのに、そんな気にはなれなくなってしまった。


 一度口づけてしまうと歯止めが効かなくなるのではないか心配であるし、そんな理由で彼女の唇を奪いたくはない。


 イネスには、嫌な思いも、怖い思いもさせたくない。


(……そもそも復讐などという危険なことを手伝わせようとしているくせに、矛盾しているとは思うが)


 とは言え、父の復讐と母の救出は、彼女も望んでいることでもあるため、このまま協力してもらうことになっている。


 ただし、目的を果たした後の計画については、当初の考えとはまったく変わってしまった。


(復讐を終えても、イネスを手放したくない。彼女をそばにとどめておけるなら、魔力などいくらでも分けてやる)


 身勝手としか言えない想いであるのは分かっている。

 アルベリクの想いとは裏腹に、彼女は人形の器から解き放たれたいと願うかもしれない。


 けれど、そんな結末はとても受け入れられそうにない。


「すまない、イネス……」


 美しく清らかな彼女の名前は、愛おしく切ない響きに聞こえた。

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