第36話 それでは足りない

「失望なんてしていない」


 そう答えるアルベリクの瞳は少し潤んでいて、耳の端がほんのり赤い。


「ですが、がっかりなさったような溜息が聞こえてきたので……」

「あれは……心を落ち着かせるために深呼吸しただけだ」

「心を落ち着かせる? では失望ではなくお怒りに──」


 耳が赤かったのは怒りで頭に血が昇ってしまったせいかもしれない。

 焦ってまた平謝りしようとするイネスだったが、アルベリクの大きな手に両頬を挟まれ、頭を下げることは叶わなかった。


 青く煌めく瞳と視線が絡む。


「君に怒ってなんていない」

「では、なぜ……」


 さっきはあんなに顔を合わせ難かったのに、今は魔法にかけられたように目を逸らすことができない。


 アルベリクも真っ直ぐにイネスを見つめたまま、柔らかく目を細める。


「君の言葉が嬉しくて」


 イネスの言葉というのは、つまり、先ほど相当の覚悟を決めて発したあの言葉だろう。



 ──原因は、わたしです。アルベリク様と一緒にいると、おかしいほど胸が高鳴ってしまうからです

 


 思い出した途端に、また羞恥で顔が熱くなる。


 こんな顔、アルベリクには見られたくないのに、その本人の両手に挟まれているせいで、隠すことも背けることもできない。


「さっき言ったのは本当に? 胸が高鳴るのは、俺を意識して?」 

「は、はい、そうです……」

「俺を君の主人ではなく、一人の男として見てくれているということか?」

「そっ、そうです……!」


 これは新手の拷問だろうか。

 こんなに至近距離で自白させられるなんて、恥ずかしすぎて、今だけはすぐにでも消えてしまいたい気分だ。


「すみません、わたしなんかがこんなこと……」


 半泣きになりながら謝ると、アルベリクの顔がすぐ目の前に近づいてきた。


「どうして謝るんだ。俺は嬉しいと言っているのに」


 今にも鼻先が触れ合いそうで、アルベリクの吐息が顔にかかる。


「俺もイネスといると胸が高鳴って、熱くなる。何度も君に触れて、抱きしめて、口づけしたくなるんだ」


 アルベリクの低く心地よい声が身体中に響いて、もう何も考えられなくなってしまう。


「イネス──」


 アルベリクに抱きしめられ、耳元で名前を囁かれて…………イネスは限界を悟った。


「すみませんアルベリク様、また意識が飛びそうです──」




◇◇◇




「すまない、つい嬉しくて……」


 すんでのところで失神を免れたイネスは、アルベリクに適切な距離を取ってもらい、会話を続けた。


「ひとまず原因が分かってよかったです」


 急な魔力切れは、魔法の欠陥ではなく、感情のたかぶりのせい。

 だから、それにさえ気をつければ、イネスが突然倒れることもなくなる。


 これ以上アルベリクを悩ませずに済み、数日後に迫った夜会でのミレイユ救出計画も支障なく遂行できるだろう。


 原因が判明して、アルベリクには呆れられるか、怒りを買ってしまうのではないかと心配したが、それも杞憂だった。


 すべてが丸く収まったはず。


 それなのに……。


(どうしてアルベリク様は悩ましげな顔をされていらっしゃるのかしら?)


 先ほどまで機嫌が良さそうだったアルベリクの表情は、いつのまにか沈んで見える。


 もしや、イネスが気づいていないだけで、他に何か重大な懸念があるのだろうか。


「アルベリク様、そんなに暗いお顔をされてどうしたのですか? 何か気掛かりなことでもあるのですか?」


 イネスが心配して問いかけると、アルベリクは何かに耐えるかのように、ベッドに置いていた手をぎゅっと握りしめた。


「たしかに原因が分かったのはよかったが……それだとイネスと触れ合ってはまずいということだろう?」

「えっ」


 アルベリクが切なげな視線をイネスに投げかける。


「せっかくイネスも俺を意識してくれていると分かったのに」

「あの、ですが、こうして適切な距離を保っていれば問題ありませんし……。手を繋いだり髪に触れていただくくらいでしたら、まだ大丈夫ですので」

「それでは足りない」


 足りないとは、何が足りないのだろうかと思っていると、アルベリクがイネスの髪を掬い取った。


「こうして髪に触れると頬にも触れたくなるし、抱きしめてキスしたくなる。イネスは俺に触れたいと思わないのか?」

「そ、それは、触れたくないわけではありませんが……」


 アルベリクの見せる辛そうな表情に、つい絆されてしまいそうになるが、それで失神しては元も子もない。

 イネスの身体に留まり続けるために、危険はなるべく避けなくてはならない。


 アルベリクもそれは理解しているから、無理に主張を押し通そうとはしてこなかった。


「……すまない、俺の気持ちがはやりすぎたみたいだ。イネスのために我慢しなくてはな」

「アルベリク様、ありがとう──」

「だから、少しずつ慣らしていこう」

「えっ……?」


 金色の目をぱちくりとさせるイネスに、アルベリクが微笑む。


「二人で生誕祭に行くときだって、恋人同士のはずなのに手を繋ぐくらいしかしていなかったらおかしいだろう?」

「そ、そうでしょうか……?」


 それほどおかしくはないような気がするが、アルベリクはきっぱりと言い切った。


「いや、おかしい。偽装恋人ではないかと怪しまれるかもしれない」

「そんな……」

「今まで、あんなに触れ合っている姿を見せつけていたのに、急に接触が減っては不自然だ」

「ええと、それはたしかに……?」

「そうだろう? だから皇帝の生誕祭までに抱擁くらいでは倒れずにいられるようにしよう」

「は、はい……」


 アルベリクはそうイネスに約束させると、機嫌を直した様子で立ち上がった。


「では、イネスひとりのほうがゆっくり休めるようだから、俺は部屋へ戻るよ」

「そ、そうですね」


 たしかに、胸を高鳴らせる張本人がいないほうが意識を失う心配もないし、ぐっすり眠れそうだ。


 こくこくとうなずくと、アルベリクが可笑しそうにフッと笑った。


「では、おやすみ、イネス」

「おやすみなさいませ、アルベリク様……」



◇◇◇



 アルベリクが去ったあと、イネスは首まで掛け布を持ち上げて、声にならない悲鳴をあげた。


(つ、つまり……わたしとアルベリク様は両想い、ということ……?)


 とても信じられないし、自分が人形である以上、このままでいられるとも思えない。


(でも……たとえ今だけの幸せであっても、すごく嬉しい)


 イネスはころんと寝返りを打つと、幸せな気持ちで眠りについた。

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