第037話 工作員(7)
土曜日の朝、午前7時30分過ぎ。
展望室。今度は、僕とゆりっちの二人きりでの利用だ。
僕もゆりっちも、宿題のプリントとか教科書とか参考書とかをどっさり持参して来ている。考えることは同じなんだな。
くつろぎやすいようにということで、影ッちに頼んであらかじめ畳とクッション、それに背の低い横長のテーブルを、ソファーの裏手に追加で設置してもらっている。
やっぱり畳の上は落ち着くな。
テーブルの左側に僕が、右側にゆりっちが、並んで座っている感じだ。
こんなクッションが自宅用にも欲しいな。今度ホームセンターに買いに行こう。
ゆりっちが切り出してきた。
ゆ:「こちらが指定した時刻、午前9時まで、残り90分を切ったよ。」
マルキュウマルマルじゃなかったんかい。
自衛隊流はどこへ行った。
ゆ:「いま一度、現在の状況とこちらの対応を整理しておこう。」
僕:「分かった、まず、今なお僕に対する脅威となっているのは、米国、北朝鮮の2ヶ国のグループだけ。」
「工作員が乗っている監視車両の位置はここと、ここ。」
僕は影ッちがアップデートしたばかりの情報を画面上で指してゆりっちに説明した。
画面といっても、もちろん、液晶モニターとかじゃない。
空間上に直接表示されるVR画面みたいな立体映像だ。SF映画でよく出て来る。
僕:「拉致を実行する工作員たちは全員この車両に乗っている。」
「米国については他の監視者グループもあるけれど、監視だけということなので放置でいいかな。」
ゆ:「待って、それはだめ。さっきも言ったけれど、監視だけでもずっと自宅の前に張り込まれていたら困るでしょう。」
「国として拉致を準備している以上、監視だけしているグループであっても、その情報が拉致の実行に重要な情報を与えるんだから放置しない方がいいと思うよ。」
僕:「なるほど、そうだね。分かった。全部一括して考える。」
「そうなると、消滅させる装備は米国だけめちゃくちゃ多くなっちゃうな。」
僕は説明を続ける。
僕:「ここを見て。ご存じの通り、ここは金屑川対岸にあるタワマンなんだけどさ、この部屋のこの窓から、ほら、望遠鏡で監視している。」
「それから、こっちがドローン。」
「米国空軍所有のバリバリの軍事用無人偵察機さ。」
「電気屋さんで買えるような小型ドローンじゃなくって、全長14メートル、教室からはみ出すサイズの巨大なラジコン飛行機だね。」
「これが今でも福岡市近辺の上空高度約1万八千メートルを旋回しながら僕の自宅を監視中だよ。」
「最後はこれ、米国軍所有の軍事偵察衛星。」
「これは高度数百キロメートル上空を飛んでいる複数の衛星の総合運用になっていて、途切れることなく常に最低1台はこちらを監視してる。」
「全ての偵察衛星とその軌道のタイムスケジュールはこんな感じ。」
僕は衛星の名前と周回軌道、周回日時がびっしり並んだエクセルの表のようなものを見せながら説明した。
ゆ:「すごい情報ね。これ、そのまま米国に送ったらどうなるかな。」
「手を引かなければこの情報を公表するぞって脅したら、直ちに手を引くかも。」
「あ、もちろん、本当に送っちゃだめだけど、そのくらい凄い情報だってこと。」
僕:「うーん、何が凄いのか僕は全く理解できないけれど、そんなものなのかな。」
ゆ:「そんなもんだよ。今は気にしなくていい。」
ゆりっちは続けた。
ゆ:「じゃあ第一段階の午前9時ちょうどに警告として消滅させる備品を再確認しよう。」
「さっきの会議では車のフロントガラスを消そうって話だったけど。」
「第二段階の午前10時に海に沈めちゃうこととか考えると、最初に言っていた車のフロントガラスは抜かない方がいいかな。」
「フロントガラスが無いと脱出が簡単過ぎて警告の効果が薄れるかもしれないから。」
その時、ふと、ゆりっちは何かを思いついたような顔になった。
「ねえ、ひまり、いいこと思いついちゃった。」
僕:「えっ?」
ゆ:「海に沈める代わりにさ。」
「宇宙空間に上げちゃう方が効果的じゃないかな。」
うわ。こいつはドン引きだ。
僕:「…お、おう………」
僕にはそう反応するのがやっとだった。
こんな怖い子に参謀を頼んだのは誰だ。
ゆ:「宇宙空間に上げる直前に車の窓とかは全部閉め切っちゃうといいかも。」
「車の内部の空気が完全に減圧されるまで数十秒かかるだろうから、じわじわと空気が減っていく恐怖を体験させられると思う。」
「警告の効果は抜群だ。」
「フロントガラスから地球が見える向きに調整しておくと理想的。」
「何が起こったか、全員が恐怖と共に理解する。」
「念のため、直射日光が入らないような向きにもしておいた方がいいかな。」
「宇宙空間で直射日光を浴びると放射線とか紫外線でひどい目に合うからね。」
いやいや、宇宙空間に上げる時点で十分にひどい目に合っていると思うよ。
「車内の様子は減圧の状態も含めてモニターしつつ、工作員が意識を失う直前くらいのタイミングを待とう。」
「最大で数十秒から1分間くらいかな。その後で元の場所に戻してあげよう。」
「その車両はもしかしてエンジン全損でレッカー移動になるかもしれないけれど。」
もうお腹いっぱいです。そろそろ誰か止めて。
僕:「わ、わかった、その作戦で行こう。後で設定するときに手伝って。」
ゆ:「ん、そうだね。それじゃあ、第一段階の午前9時の話に戻すよ。」
「消しちゃうのは…えっと…」
「工作員の着用している防弾チョッキの、防弾プレートと防弾繊維だけ。」
「かつらをかぶっている工作員はかつらも。」
「サングラス着用の工作員はサングラスのガラス部分だけ。」
「こんなところでいいかな。」
僕:「それでいいと思う。いま遠隔監視で確認したけれど、工作員はみんな防弾チョッキ、かつら、サングラスのどれかを着用しているから行けそう。」
ゆ:「それはいい。全員が何かしらの備品の消失を受けるから、絶対にすぐ気がついて、しかもめちゃめちゃ恥ずかしい感じになると思う。」
僕:「米国の工作員については、金屑川対岸のタワマンのグループ、ドローン操作のグループの装備も同様だね。みんなどれかを着用しているから問題なし。だけど、偵察衛星のグループは対象者が多い。」
「ほら、この部屋、かなり大掛かりな管制室みたい。50人くらいいる。」
「ご覧の通り、防弾チョッキ、かつら、サングラス、どれも着用していない人がたくさんいるし、どうしよう。」
「あっ、この人はどうだい。一番偉そうな席に座って一番偉そうにあれこれ指示を出している人。」
「この人だけが防弾チョッキ、サングラスを着用している。偵察衛星のグループはこの偉そうな人だけを対象にしよう。」
ゆ:「私もそれでいいと思う。」
そう言ったところで、ゆりっちがまた急にひらめいたような顔になった。
ゆ:「北朝鮮の工作員の方は将軍様の写真も消しましょう。」
僕:「は?」
ゆ:「えーと、あの国の工作員は必ずどこかしらに将軍様の写真とか肖像画とかを持っているって聞いたことがあるから、それを消すの。」
「それから、自決用の毒物なり拳銃なりも所持しているらしいから、それも消そう。」
「いや、やっぱり消すのはナシかな。」
「北朝鮮が持っている違法な武器については消さずに首相官邸へ直送しちゃおう。」
「戸高総理にはこのあとまた電話してお願いしておいて。」
「北朝鮮工作員が所持していた違法な武器を受け取ってくださいって。」
僕:「えええええ。わざわざ戸高総理に送る必要があるの。」
ゆ:「必要、ではないかな。でも、北朝鮮の工作員が使っている現物だからね。戸高総理が外交カードとして政治利用するだけの価値はあるんじゃない。」
僕:「そんなものかな。僕には分からないや。」
ゆ:「価値が無いとか、邪魔だからやめろとか言われたらそれでいいよ。でも、もしかしたら戸高総理にとってお役立ちアイテムになるかもしれないから言うだけ言っておいて。」
僕:「分かったよ。」
そこで打ち合わせをいったん止めて僕だけ自宅に戻り、戸高総理に電話で経過を報告した。
「受け取り」の件、戸高総理は驚いていたけれど「いやだ」とは言わなかった。
ゆりっちの見立ては正しかったらしい。ゆりっちおそるべし。どこでそんな裏事情を仕入れているんだ。
戸高総理は執務室のテーブルの上に大きめの空の段ボールを用意するそうだ。備品の移動先は全てその段ボールに指定して、じゃらじゃら入って行く設定にした。
僕が展望室に戻った時、ゆりっちはすっかり宿題のプリントに没頭していた。
設定を済ませたら、僕もちょっとだけ宿題のプリントをやろう。
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