第038話 工作員(8)

 午前8時45分。


 僕は入念に「消滅」と「移動」の設定を再確認していた。


 ゆりっちは涼しい顔で宿題のプリントの続きをやっている。


 一通り再確認した。


 ゆりっちに最終確認をお願いした。


 午前8時50分。


 念のため、いったん自宅に下りて戸高総理にまた電話を掛けた。


 これから起こることを再度説明した。


 午前8時55分。


 僕とゆりっちの二人は緊張の面持ちで展望室に待機していた。


 最早二人とも宿題なんかやっていない。


 僕とゆりっちは各方面の遠隔監視映像を複数ずらりと並べて同時に見ている。


 影ッちの提供する遠隔監視映像は本当に不思議だ。監視対象者の顔の真ん前を平気で横切りながら撮影しているのに本人が全く気付いていない。


 そういえばあおいが前に説明していたな。


 カメラなんか無いとか、スキャンした時空間データに基づきうんたらかんたらとか、言っていたっけ。なんて恐ろしい技術だよ全く。


 午前9時00分。


 指定していた時刻になった。


影:{最終確認。米国、北朝鮮に状況変化なし。}


 影ッち、攻撃オプション、消滅、移動、設定通りに実行して。


影:{攻撃オプション、消滅、移動、設定通りに実行した。}


僕:「ゆりっち、実行したよ。」


僕&ゆ「「…」」


 2カ所からの映像で2人の運転手が同時にツルピカになったのが見えた。


 偶然なんだろうけれど、米国と北朝鮮の車両の運転手はどちらもかつらだった。


 二人とも全く同じように大慌てで頭を両手で覆って隠そうと試みているんだけれど、もちろん隠し切れない。下手な芸人のリアクションよりずっと面白い絵だよ。


 僕とゆりっちは盛大に吹き出した。


 その他も全て予定通り。


 防弾チョッキが急に軽くなって慌ててチェックし出す工作員たち。


 サングラスのガラスが無くなってフレームだけになった間抜け面の工作員たち。


 想定通りの状況を確認できた。


 北朝鮮の車両では、大事な写真、自決用の毒薬、拳銃の消失に気づいた工作員が大慌てで本国に連絡していた。


 僕とゆりっちは特に何を話すでもなく観察を続けた。


 5分経過したころに影ッちが入ってきた。


影:{米国、北朝鮮、ともに動きがあった。}


{北朝鮮は撤退を決めた。撤退準備に入っている。}


 良かった。残るは米国のみ。


影:{米国については内部で判断が揺らぎ始めた。}


 僕はゆりっちにその経過を伝えた。


 すぐ自宅に下りて戸高総理にも電話で報告しようとした。


 が、ゆりっちに止められた。


ゆ:「ねえひまり。毎度毎度、電話のために自宅に下りていると不便でしょう。自宅の電波環境をこの展望室まで引っ張れないのかな。」


 なるほど、思いつかなかった。


 影ッち、どう?


影:{問題ない。設定した。}


{君の携帯端末の電波環境は展望室に入る直前の場所に偽装されている。}


{展望室への出入りが携帯端末の電波から漏えいすることはない。}


{今朝は自宅から展望室に入ったので、君の携帯端末は自宅に存在しているかのように偽装されている。}


{今後はどこから展望室に入っても、入る直前の電波環境が自動的に偽装されるよう設定した。}


{ただし、電波環境の偽装は注意が必要だ。}


{最初の場所に戻るまで電波環境の偽装が解除されない。}


 えっと、どういうこと?


影:{例えば、展望室においては他の端末との近接通信が使えない。}


{だから、展望室で無線イヤホンを使用する場合、連絡先交換の必要がある場合などは一時的な偽装解除が必要になる。}


 なるほど、それは困るね。


影:{展望室を経由して他の場所に移動してしまった場合も同様だ。}


 なんだか面倒くさそうだけれど、とりあず、分かったよ。ありがとう影ッち。


 すぐにスマホを出してアンテナを確認する。


 WiFiも含めたアンテナは全部バリバリに立っている。


 僕は思わずにんまりしてしまった。


 僕の笑顔を見た途端、ゆりっちも同じくスマホを取り出し確認している。


 でも、そのゆりっちの曇った表情を見るに、だめだったらしい。


 やっぱりか。


 ゆりっちの携帯端末も同じ設定にしてあげられないかな。


影:{そのように設定した。}


 次の瞬間、ゆりっちの表情がぱぁあ~って、明るくなった。なんて分かりやすい。


僕:「ゆりっち、それぞれのスマホはそれぞれ展望室に入る直前の電波環境が設定されているよ。」


「例えば、自宅から展望室に来た場合、僕のスマホは僕の自宅に、ゆりっちのスマホはゆりっちの自宅に、それぞれいるときと同じ状態の電波に接続している。」


 影ッちから言われたその他の注意事項もそのままゆりっちに説明した。


僕:「身の安全にかかわることだから忘れないでね。」


ゆ:「ありがとう、ひまり。」


僕:「いや、礼ならば僕じゃなくて影ッちに言ってよ。」


ゆ:「私にとっては全く存在感がないんだけどな。」


「じゃあ、まあ、いちおう。影ッちさん、ありがとうございました。」


 もちろん、影ッちからの反応は全く無い。


 僕は展望室から戸高総理に電話をかけて経過を説明した。


 戸高総理の目の前の段ボールには大量の違法な武器が入っていたそうだ。


 うん、知っているよ。僕がそう設定したからね。


 電話を終えてみると、ゆりっちはまた宿題プリントを始めていた。


 僕もしばらくは宿題プリントをがんばろう。


 次の勝負は午前10時だ。

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