第16話
次の日、美和はいつもよりだいぶ早く教室にやって来た。
教室には誰も居ず、代わりにグラウンドから部活のものと思われる掛け声や笛の音が聞こえて来た。
窓から朝の陽が差す、誰も居ない教室は味わった事の無い、神聖な空気が漂っていた。美和は自分の椅子に座り、その神聖な空気を存分に味わった。
少し経った時、パタパタと廊下を歩く音が近づいて来た。
篠倉君かな?
美和は、開け放した教室の戸を見ながら、篠倉の到着を待った。
「藤枝さん!すみません!待ちました?」
「全然待ってないよ。どうして?約束の時間までまだあるじゃない」
「藤枝さんの靴箱を見たらもう来ていたので!待たせてしまったかと思いました。すみません、こいつ繊細なんで走って来れなくて」
篠倉が虫籠を美和に見せた。
「全然大丈夫だよ。その子がそうなのね」
美和が虫籠を覗くと、蝉はゼリーのようなものの上に静かに止まっていた。
「これがご飯?」
「はい。樹液の代わりです」
「美味しいのかな…?メープルシロップみたいな?」
「そうですね…食べてみないと分からないですね、今度食べてみます」
冗談なのか本気なのかわからない篠倉に、思わず美和が吹き出すと、
「なんかまた変な事言っちゃいました?」
恥ずかしそうに頭を掻いた。
「変な事じゃないよ、面白かったの」
「面白い?そうですか?」
篠倉は不思議そうな顔をした。
「それより、放そうか。人が来る前に。」
「はい!」
二人は既に数センチ開いていたベランダの戸を全開にすると、勢いよく風が入ってきた。
「今日は風があるね」
「でも晴れてて、良い天気ですね」
なるほど、空を見ると、雲一つない快晴だった。旅立たせるには絶好の日だ。
「外でもしっかり生きるんだぞ」
篠倉が虫籠の扉を開いて、手を中に入れた。両掌に包まれた蝉は意外なほど大人しい。
美和は教室に入らないように、窓ガラスを閉めて、静かに見守った。
親のように育てた蝉が飛び立つのは、どんな気分だろうか。
「手を開きますよ。」
篠倉が両手をパッと開くと、蝉は初め迷っているかのように手のひらの上をウロウロ歩いていたが、暫くすると決心したように「ジジジッ」と鳴きながら飛んでいった。
陽の光に透ける羽が青い空に映えてなんとも美しい光景だった。
「行っちゃったね」
美和が話しかけた。
篠倉はそれには答えず、飛んでいくセミを愛おしそうに眺めていた。
その刹那、何故か美和の胸はドキリと高鳴った。
あんなに優しい目をするなんて…
胸の高鳴りを隠すようにベランダから一歩下がって鼓動を抑えた。
「美和さん」
「ひゃ!?」
突然話しかけられて美和は飛び上がった。
「一緒に放してくれてありがとうございました。美和さんのお陰で放す事ができました。」
「わ、私なんてなんにも…」
ああ…でも…
「綺麗だったね、蝉が飛び立つ姿。」
篠倉はしっかりと頷いた。
それから二人、揃って青空を見ていた。
梅雨の合間の、雲ひとつない快晴の空を。
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