第4話

「受験勉強に集中できるように、お兄ちゃんと美和の部屋を離しましょう」

とは、ママからの提案だった。

それまで隣同士だった私とお兄ちゃんの部屋を離して私の部屋を一階に移動させようというのだ。

「ママの部屋も1階に移すから、2階はお兄ちゃんだけが使えるようにしましょう」

ママが重ねて言った。

「えー!お兄ちゃんと離れたくない」

ママには通じない事が分かっていても、私は我儘を言った。それ程離れたくなかったのだ。

「そうだよ、そこまでしなくたって…K高は合格圏内だって先生からも言われてるんだし」

お兄ちゃんも参戦した。

「念には念を、よ。今は合格圏内だけど、K高は難関高よ?そんな甘い考えでどうするの」

「えー!やだやだ絶対やだ」

尚も我儘を通そうとする私に対して、ママはピシャリと言った。

「お兄ちゃんの為よ、協力しなさい。それで落ちたらあなた責任取れるの?」

「うぅ…」

そこまで言われたらグゥの音も出ない。私は渋々オーケーを出した。

お兄ちゃんも折れた。

「美和、ごめんな。受験が終わったらすぐ戻すから」

私の部屋から、丘の下の街の様子がよく見える。その景色も気に入っていたのに…でもお兄ちゃんの為なら仕方ない。

「いいよ、お兄ちゃん。受験頑張ってね」

「うん、ありがとう」

お兄ちゃんは深く頷いて、部屋の扉を閉めた。

聞き慣れたはずのパタンという音が、ひどく寂しく聞こえたのを私は覚えている。





「陽平君、K高受験するんですって?流石ねぇ」

学校からの帰り道、家がお向かいの岸谷さんに話しかけられた。

受かってもないうちから、お兄ちゃんがK高受験するのは何故か周りの皆も知っていた。何故か?と言っても、大方お喋りな同級生が吹聴してまわったのだろうけれど。

「お久しぶりです、岸谷さん」

私は会釈をした。

「礼儀正しくて偉いわね、昔からそうだったわね、美和ちゃんは」

昔から岸谷さんは私の事を些細な事でも褒めてくれる。何故か私はそれを聞くと居心地が悪くなる。気まずくてここから今すぐ立ち去りたくなるのだ。

「ありがとうございます」

ぎこちなくお礼を言うと、

「寒くなるから、お兄ちゃんに体に気をつけてって伝えてね」

と言って去って行った。


そういえば、いつの間にか季節は秋から冬になろうとしていた。


お兄ちゃんの受験も、もうすぐだ。




部屋が離れてから、お兄ちゃんはいつ寝てるのか分からない程常に勉強していた。ご飯を食べる時も、参考書を手放さない。元々トップの成績だったのに、それ以上上がりようがない程勉強していた。


それでも疲れた顔は見せず、

「お兄ちゃん」と部屋に行くと、必ず

「おう。美和」と笑顔で迎えてくれた。

「美和!お兄ちゃんの部屋に行くなって何度言ったら分かるの!」

でも、必ずママに見つかってしまうのだ。

「母さん、俺は大丈夫だから」

お兄ちゃんの制止も、ママには効かない。お兄ちゃんの部屋の扉を閉めると、

「こっちへ来なさい」

と、美和を美和の自室に連れて行った。


「美和、お兄ちゃん大事な時期なんだからね。それにあなたは人の事構ってる暇なんてないはずよ。今回の算数のテスト、前回より下がったって塾の先生から電話が来たわよ」

「はーい」

「またそんなふてくされた態度とって…」

ママは深くため息をついた。

「あなたはお兄ちゃんみたいに器量良しでもなければ運動が出来るわけでもない。だからせめて勉強だけはしなさい」

「だって…」

だって仕方ないじゃない。私はその他大勢。通行人Aなんだから。

「だってだってって、言い訳ばかりしてたって何にもならないのよ。本当に、誰に似たのかしら」

ママは疲れたようにこめかみを抑えた。

「本当にあなたは生まれた時からママの頭痛の種よ」

ごめんなさい、ママ。

できない子でごめんなさい。

言いたいけど、言えない。小さい時はもっと素直にママに謝れてたのに、最近はずっと謝れない。

ママに叱られる度、黒い雲のようなものが心に広がっていく。それはどんどん大きくなって、大きくなればなるほどママに反抗してしまいたくなる。こんな子、可愛くないよね。

ママが去った後、もう一度お兄ちゃんの部屋を訪れたかったが、やめておいた。

「パパに会いたいな」

一、二年で終わると言っていた海外赴任は、大幅に予定が狂っているらしい。

長い休みには帰って来ると言ったのに、その約束もなかなか果たされない。


パパは海外、お兄ちゃんは受験で、もはや私の頼れる人はだれも居ない。孤独な長い冬だった。

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