第30話

その日の夜はよく寝れなかった。というよりも、あの日から殆ど寝れていない。


「おはよう、美和。朝食食べるか?」

「ううん、いらない。ありがとう」


陽平は心配そうな顔をしたが、美和の目には入らなかった。



その日は学校で体育の授業があった。

「まず準備体操してトラック2周走りますからね、皆さん走る前に水分補給しっかりしてください!」

体育の太田先生が大声で皆んなに指示を出した。

美和は水を飲む気にもなれず、一口飲んで誤魔化した。


「暑いねーこんな時にマラソンとか嫌なんだけどー」

「タイム測るってー!最悪ぅー」

など、皆んなのブーイングが飛ぶ中、美和は太陽の下で順番を待った。


よーい!ドン!


号令を待って、美和は走り出した。


暑い…頭がぼーっとする。

苦しい…息がうまく出来ない…

美和の視界は徐々に狭窄していった。


「きゃー!藤枝さん!」


薄くなっていく意識の中で、誰かの叫び声が聞こえたが、それが誰かは判別できなかった。








「…さん!美和さん!」


随分遠くから誰かに呼ばれた気がして、美和は目を開けた。

そこには心配そうに美和を見つめる篠倉が居た。


「篠倉…くん?」

美和が名前を呼ぶと、篠倉はホッとした顔をした。

「覚えてますか?体育の授業中倒れたんですよ」

「あぁ…あれから倒れちゃったんだ?」

「大丈夫ですか?頭痛いとかないですか?」

「ちょっと…痛いかも」

美和はおでこに手を当てた。

「あら!藤枝さん起きたの?もう放課後よ」

次に声をかけたのは保健室の先生だった。


「放課後…そんなに倒れてたんだ」

「心配しましたよ。起きれますか?」

とは、保健室の先生だ。

「はい、大丈夫です」

起き上がると、ズキンと頭が痛んだ。

「体調悪かったんですか?」

篠倉が聞いた。

「ううん、最近あんまり寝てなかったからだと思う」

「暑いとそれだけで体力使うんだから、ちゃんと寝なきゃダメよ」

保健室の先生は呆れたように言った。

大方、美和が夜更かしして寝ていないとでも思ってるのだろう。

「はい、すみません」

「帰りましょう、送ります」

藤枝が力強く言った。

「え?いいよいいよ!お家、反対方向じゃん」

「気にしないでください。このまま一人では帰せません」

「そうよー、送ってもらったら?」

「でも…」

美和が何と言っていいやら迷っていると、

「行きましょう!」

篠倉は美和のカバンを持って、決意を込めて言った。





「ごめんね、篠倉くん」

電車の中で、美和は謝った。

「なんでですか!謝らないで下さい。僕が勝手にやってる事なんで」

「……ありがとう、篠倉くん」


それにしても、倒れる前より体が大分軽くなった。やっぱり睡眠て大事だと、美和は痛感した。

今日からは無理やりにでも早く寝よう。

と言っても中々難しいのだけれど。


いつも一人で乗る電車に、篠倉が一緒なのは変な感じだ。でも、篠倉の心配が美和には嬉しかった。




「ここが美和さんが育った所ですか!」

美和の家の最寄駅に着くと、篠倉は目を輝かせた。

「なんかここに篠倉君がいると照れるね」

美和は仄かに顔を赤くした。


「ここからあのバスに乗るの」

美和はバス停を指差した。

「このバスに乗って、坂の下まで行ったら、そこからは歩きなの、暑いけど…本当に行く?」

「行きましょう」

篠倉が先頭を切って歩き出した。


二人して来たバスに乗り、坂の下で降りた。

美和の家まではもうすぐそこだ。


「なんか、篠倉君に家を見られるの恥ずかしくなって来た」

「気持ち分かりますよ。僕も美和さんに家見せるってなったら恥ずかしいですもん。でも今は僕楽しみです」

キラキラした目で篠倉が言うので、美和はますます家を見せるのが恥ずかしくなって来た。


「じゃ、じゃあ坂登ろうか」

二人で長い坂を登り始めた。

「暑いでしょ?」

「僕は大丈夫です、それより美和さんが心配です」

「私は大丈夫!保健室でたくさん寝れたから」

「それならよかったです」


岸谷さんの家の前を通り過ぎる時に、僅かに恐怖を感じたが、篠倉と一緒なら心強かった。


そうしているうちに、白い白い美和の家が見えて来た。


「ここが私の家」

美和が家を指差した。

「うわー、豪邸ですね」

篠倉は感心したようにマジマジと家を見た。

「上がってお茶でも飲んでってね」

「いえ!大丈夫です!僕はここで!」

篠倉は急に慌て始めた。

「何言ってるの、ここまで送ってくれといて」

美和は強引に篠倉の腕を引っ張って門扉を開けた。


「ちょっと待っててね」

美和が家の玄関を開けて「どうぞ」と手招きした。

「えと…お邪魔します」

遠慮がちに、篠倉が玄関に入った。

「ただいまー」

「お帰り」

リビングから陽平の声がした。

「友達連れて来たよ」

「友達?リビングに上がってもらえば?」

「うん、そうするー」

「…美和さん、誰と話してるんですか?」

「ごめんごめん。お兄ちゃんだよ。紹介するね、さぁ上がって」

「…いえ、僕はもう今日はここで帰ります」

「え、なんで?」

「急用思い出してしまって、それではまた明日」

「篠倉君?」

篠倉は一礼すると、玄関から出て行った。

「…どうしたんだろ?」

「美和?お友達は?」

「急用思い出したみたいで帰っちゃった」

「そっか。今度はゆっくりして行ってもらえるといいな、美和の友達なら俺も会って見たかったよ」

陽平は残念そうに言った。

「うん…」

篠倉の様子がおかしい事に、美和は気付いていた。

篠倉君、本当にどうしたんだろう。



篠倉は坂道を下って帰り道を急いでいた。

「あのー、ちょっといいかしら?」

そこへ、見知らぬ婦人が話しかけて来た。

「急に話しかけてごめんなさいね」

篠倉は最初は驚いたが、その婦人の上品な話し方から、悪い人では無いと感じ取った。

「はぁ…」

「私、あそこの家に住んでる岸谷と申します」

婦人は美和の家の向かいの家を指差した。

「さっき、美和ちゃんの家から出て来たわよね、それでちょっと聞きたい事があるんだけれど」

美和の名前が出て来た途端、篠倉は警戒心を強めた。

「…なんでしょうか?」

「最近お庭が荒れていらっしゃるのでお母さんの具合でも悪いんじゃないかと気になって…お母さんは元気だったかしら?」

「いえ、分かりません」

何を探っているのかは分からないが、ここは全て分からないで通そう。

「そう…お会いしてない?」

「会ってはいません」

美和さんの話では、お母さんは海外に行ったらしいが…ここでは話すべきではないだろう。

「そう、じゃあお兄さんは居たかしら?」

篠倉は急に感情を露わにした。

「………分かりません!全て、何も知らないです。失礼します!」

「…そう、ありがとう。急に呼び止めてごめんなさいね」

「失礼します」

篠倉は一礼してその場を去った。


後には、岸谷さんだけがポツンと坂道に取り残されていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る