第29話

さすがと言うべきか、やはりスーツは陽平の体にピッタリと、まるで張り付くようにフィットした。


「これから岸谷さんの家に挨拶に行ってくるから。美和は何も心配しなくていいからな」

陽平は美和の頭を軽く二回ほどポンポンと撫でると、玄関に向かった。

「お兄ちゃん、行ってらっしゃい」

美和は不安な面持ちで見送った。


お兄ちゃんなら上手くやってくれるだろう…でも、なんだか嫌な予感がする。

美和は二階の、岸谷さんの家が見える窓から見守る事にした。

すると陽平が、岸谷さんの家のチャイムを鳴らすのが見えた。


応答が無いのか、陽平は暫く門の前で待ったが、誰も出て来なかった。

陽平は仕方なくUターンして家に戻ってきた。


留守なのか…美和の見える範囲からは窺い知る事ができない。美和は陽平が去った後も、岸谷さんの家を見守っていた。

すると、カーテンの向こう側で人影が動いているのが見えた。

誰か居るんだ!美和は固唾を飲んで見守った。


「ただいまー」

その内に陽平が帰ってきたが、美和は視線を外す事が出来ない。


「何してるんだ?美和」

陽平が美和の背後に立った。

「お兄ちゃん!岸谷さん、家にいるみたい」

「マジで?」

陽平が窓を覗いた時だった。

岸谷さんがカーテンの隙間から明らかにこちらを見ていた。

「キャッ!」

美和と陽平は慌てて腰を低くして隠れた。

「やっぱり、居たんだ…しかもこっちを見てる!どうしよう、お兄ちゃん」

「うーん…なんで居留守なんて使ったんだろうな」

「お兄ちゃんに会ったら都合が悪い事でもあるのかな?」

「…分からない」

陽平は何か考えるように顎を掴むように手を当てた。

「俺に会ったら都合の悪い事…俺を探っている事?」

さすがの陽平も、居留守を使われた理由は推測しかねるようだった。


「まぁ、居留守は使われたけど、これで俺が帰ってきた事は知ってもらえたわけだ」

陽平は居直るように言った。

「これで大丈夫なのかな?」

「本当は会って話して、母さんが海外に居る事も伝えたかったけどな」

「そうだよね…」


一歩前進したのか後退したのか、わからない。岸谷さんは一体何を考えているんだろう。どこまで推測してどこまで知っているんだろう。

どちらにしろ脅威には変わりない。


あんなに優しかった岸谷さんが、どうして…?

ママの言う通り、ただの妬み僻みでここまでやるものなのだろうか?



その時だった。

一階から、ガターンという音がした。

「なんの音だ?」

陽平を先頭に、一階に降りた。リビングには何の変化もない。

「これだ」

陽平が言った。陽平の後を追って、キッチンに向かうと、キッチンに置いてある椅子が倒れていた。


「何で倒れたんだろう?風?のはずないし」

「古い椅子だからな。バランスでも崩したのかな」

陽平は冗談まじりに笑っていたが、美和は怯えていた。

そう言えば、二階で足音らしき音が聞こえた事もあったっけ…


陽平は倒れた椅子を直して、所々ネジが緩んでないかチェックした。

「うん、大丈夫そうだ。でも念の為、この椅子は使わない方がいいかもな」

「…そうだね」

足音の事は、何故か陽平には言えないでいた。

そういえば、この椅子はよく陽子が使っていたものだ。

その時、美和の頭に一瞬掠めた考えがあったが、すぐさま美和はそれを否定した。

まさか…ね、そんなはずない。


「さ、夕飯でも作るか。美和は部屋で勉強して来い」

「いいよ、私手伝うよ」

こんな時に一人でいたくない。

「ダーメだ。テスト近いだろ?学生はちゃんと勉強しろ」

陽平にそう言われては、引き下がるしかない。

「…わかった。ありがとう」

「しっかり勉強しろよ」

陽平は笑顔で言った。


仕方なく、美和は自分の部屋に行った。

自分の部屋に居ると、必然的にあの日の事を思い出す。


ママは私を恨んでいてもおかしくない。

ううん、きっと恨んでる。

だって、私なんか産まなきゃ良かったと言っていたもの。

きっとこうなる前から恨んでいたんだ。


でも、まさか…足音や椅子を倒したのがママだなんて、そんな筈はない。


美和は首を振って考えを打ち消した。

机に向かい、あの日以来開いてなかった日記帳を開いた。そうだ、日記ももう処分しよう。もう書く事は無いだろう。


美和は古い日記帳を本棚から取り出すと、積み重ねてテープで縛った。


いつか捨てよう。


今直面してる問題が落ち着いたらでいい。


しかし、そんな時は来るのだろうか?

このまま、ママの事が誰にもバレず、普段通りの日常をお兄ちゃんと二人で送る事なんてできるのかな?


美和は改めて今の自分の立ち位置や状況を考えると心が重くなった。


どうしてあの時、お兄ちゃんがやる事を止めなかったんだろう…止めてれば、私は傷害罪で捕まって、私の人生は滅茶苦茶になったとしても、お兄ちゃんまで巻き込む事は無かったのに。

何より、陽子が生きてさえいれば、今の問題に直面する事も無かったのに。


ううん、考えるのはよそう。


お兄ちゃんは私を守る為にやってくれたのだから。

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