第8話
と、ここまで読んで、美和は日記帳を閉じた。
「お兄ちゃんが部屋から出なくなってもう一年以上になるのか」
美和は小さくため息を吐くと、日記帳に鍵をかけて本棚にしまった。更にそれを鍵のかかる引き出しの中にしまって、その鍵をウサギの貯金箱の下に置いた。ウサギの貯金箱は、小さい頃から美和がお釣りやお駄賃を入れていたので、ズッシリと重い。
これまた小さい頃からつけ続けた日記は、もう十冊目。
陽子に半ば強制的に始めさせられた日記も、今じゃ数行でも書かないと落ち着いて眠れない。
本棚にはその十冊の日記と、お気に入りの本やお気に入りのインテリアが置いてある。
美和と陽平が小さい頃の写真もお気に入りの写真立てに入れて飾ってあった。
お兄ちゃんに抱きついている小さい美和が、こちらを見て微笑んでいる。そんな美和を見る陽平の目は、限りなく優しい。
陽平の受験が終わっても、美和の部屋が2階に戻される事は無かったが、ベッドもベットカバーも机も椅子も、美和が悩んで悩んで選んだお気に入りだ。好きな物がいっぱい詰まったこの部屋は、思っていたよりも居心地がいい。
それに、今となっては自室が一階で良かったと思うのだ。一階なら、多少音を立てても陽平から苦情は来ない。
そんなことを考えながら、ふと時計を見た美和は慌てた。陽平のご飯の時間がもうすぐだ。
「急がなくっちゃ!」
駆け足でリビングに向かうと、陽子がせかせかと夕飯をお盆の上に並べていた。
「時間になっちゃうよ」
美和が言うと
「分かってるわ、だから急いでいるでしょう?」
陽子はピリピリしていた。
お盆の上には、陽平の好物の唐揚げ、サラダにわかめのお味噌汁、それに漬物が並んでいた。
あとは…
「はい、出来た」
白米も無事並んだ。
出来立ての夕ご飯を運ぶのは、美和の役割だ。
陽子がリビングの扉を開けると、美和はお盆を持ち上げて、それを2階へと持っていく。
音を立てないようゆっくり階段を上ったら、陽平の部屋の扉を3回ノックする。
〝夕ご飯置いておくよ〟の合図だ。
陽平からは何のリアクションも無い。美和はひとまず夕ご飯のお盆を傍に置くと、手付かずの、恐らく昼食だろうオムライスを下げて、持ってきた夕食を扉の前に置いた。
お兄ちゃん、また食べなかったんだ…
近頃、陽平は母親の作ったご飯を食べなくなっていた。母曰く、夜中にコンビニに行って食料を調達しているらしかった。恐らく皆んなが寝静まる頃を見計らって行っているのだろう。そう思ったのは、誰かが出入りしたら一階に部屋がある美和には聞こえる筈だが、一度も聞いたことが無いからだ。
「コンビニに行けるようになってよかった」と、美和は思う。自室に引きこもったばかりの頃は、歯ブラシもシャワーも2階にある洗面所で済ませ、それ以外は一切部屋から出てこなかった。それに比べれば例え夜中でもコンビニに行けているのは進歩だった。
美和はオムライスを持って階下に降りた。
「お兄ちゃん、また食べなかったみたいよ」
母に手付かずの料理を返すのは、いつも心が痛む。
「そう…いいわ、捨てちゃって」
疲れた横顔の陽子が、本から目を離さずに言った。〝引きこもりの子供を救済するには〟それが陽子が読んでいる本のタイトルだった。
美和がオムライスを生ゴミ入れに捨てると、陽子が言った。
「私達もご飯にしましょう」
夕ご飯は唐揚げではなく、肉じゃがだった。
陽子は、美和と自分の夕食とは別に陽平の好物の唐揚げとハンバーグを1日おきに交互に作っていた。好物ならば食べてくれるかもしれない、と思っての事だった。
「………」
「………」
二人の無言が続く。夕飯時はいつもこうだ。あまり煩くして傭兵から苦情が来ることを恐れているのもあるが、そもそも話す事が無かった。
陽子は美和の学校生活について一切聞いて来ないし、また、美和もそれを聞かれても「別に普通だよ」と返すだけのつもりでいた。
それは学校生活について陽子に詳しく話す気が無いのではなかった。学校内において、いつも一人で居る美和には、それしか返す言葉が無かった。
「テレビつけていい?」
最初に話したのは美和だった。
「音小さくしてね」
特に見たい番組も無いが、沈黙に耐えられなかった。
毎晩の事とは言え、陽平と父親がまだ食卓に居た頃、賑やかに食事をする事に慣れた美和には、沈黙はどうしても苦痛だった。
適当にクイズ番組をかけ、それを見ながらご飯を食べた。子供の頃は、テレビを見ながらご飯なんて到底許されなかったが、父親と陽平の二人が食卓に居ない今、いつの間にか許されている。
ひょっとしたらママも沈黙に耐えかねているのかも…と、美和は思った。
それとも私に気を遣っているのか…いや、それは無いな。厳しくするのに疲れた、の方がまだしっくり来る。
クイズ番組では常連のお笑い芸人が、正解を叩き出す。番組は盛り上がり、その他の回答者が大袈裟に焦る。そう言えば、お兄ちゃんはクイズが得意だった。クイズ番組を見ながら「これはこうだよ」とすぐに答えられて、大抵の場合、それは当たっていた。
また昔みたいに4人で食卓を囲む事なんて、あるのかな。パパも帰ってきて、お兄ちゃんも昔に戻って皆んなで笑いながら食事をする。
それはどこにでもある平凡な風景に見えて、美和には一生手の届かない遠い奇跡のように思えた。
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