第39話

美和がなにも手につかず、ソファでジッとしていると、ピンポーンと家のチャイムが鳴った。

恐らく、篠倉だろう。


ドアを開けると、やはり…だった。


「篠倉君…本当に来てくれたんだ」

「はい、ご迷惑かと思いましたが来ちゃいました」

篠倉は申し訳なさそうに言った。

「ありがとう…」

美和はホッとして涙が溢れた。篠倉の顔を見るだけで、こんなにもホッとするなんて…

「美和さん?泣かないでください」

篠倉は慌てた様子で門扉を開けると、美和に近づいた。


「家に入ってくれる?」

「いえ、美和さん一人の家に入るわけにはいきません」

「お願い…」

「ダメですダメです!」

篠倉は頑なだった。美和はポロポロと涙を流した。

「お願い…篠倉君しか頼れないの」

美和は不安で、一人で居ては発狂しそうだったのだ。

「じゃあ…少しだけなら…」

篠倉は美和の涙に折れた。


「お邪魔します」

美和の家の玄関で靴を脱ぎながら、篠倉は初めてこの家を訪れた時の事を思い出していた。

アレはなんだったんだろう…しかし美和さんの様子を見るに、僕の思い過ごしだったようだ。

篠倉は自分を無理やり納得させた。


「お茶でも入れるね、ソファに座っててね」

美和は台所へ向かった。

やかんにお水を入れ、ガス台に乗せると火をつけてお湯を沸かした。

篠倉君が来てくれてよかった。

美和はさっきまでの押し潰されそうな不安が幾分和らいでいくのを感じていた。


「篠倉君、本気で近くに泊まる気なの?」

「勿論です。何かあったらすぐ駆けつけますから、必ず電話ください」

「それは有難いんだけど、漫喫に泊まらせるのはさすがに気が引けるよ」

「初めてじゃないので、気を遣わないで下さい」

「初めてじゃない?前にも泊まった事あるの?」

美和の表情が強張った。

「あ、いえ!あの、誰かの為にそうするのは生まれて初めてです!前は、母と喧嘩して家出して漫喫に泊まりました」

「篠倉君でもお母さんと喧嘩なんてするんだね」

美和はポットにお茶っ葉を入れながら答えた。

「たまにしますよ、母も僕も頑固なので。普段は仲良い方ですが、言い合いになるとお互い止まらないです」

「そうなんだ…」

美和は、自分もよく母親と言い合いをしていた事を思い出した。あの日々が、もう遠い遠い日々に感じる。

あの頃、私は決して幸せじゃなかったけど、今の状態を望んだわけではなかった。


「美和さんは、お母さんと喧嘩しないですか?」

「ううん、よくしてたよ。うちのママ、気が強いから」

美和は遠慮がちな言い方をした。

ポットに少し冷ましたお湯を入れて、カップにお茶を注いで、篠倉の元へ持って行き、美和自身は、篠倉の隣に座った。


「篠倉君、よかったらお茶どうぞ」

「ありがとうございます」

よく見ると、篠倉のカップを持つ手が僅かに震えている。

「篠倉君、もしかして緊張してる?」

「そりゃあしますよ!好きな人の家に二人きりなんですから!」

「好きな人…」

美和は悪戯心から、わざと繰り返した。

「ち、違くて!いや!そうなんですが!なんというか今言うべきじゃないというか!いや、なんていうか、すみません!」

篠倉はお茶をひっくり返しそうな勢いで動揺して居た。それを見た美和はクスクス笑った。

「冗談だよ、そんな慌てると思ってなかったの」

「…美和さん!ずるいですよ」

「ごめんね」

美和は尚も笑いが止まらない。

「…笑ってくれてよかったです」

「あぁ、そう言えば、いつの間にか涙も止まってたね」

「美和さんが笑ってくれると嬉しいです」

「ありがとう」

篠倉君が隣にいてくれればいつだって笑えるよ。

美和はそう言いたかった。しかし、言う代わりに篠倉に口づけた。

篠倉は目を見開いて驚いていた。


口付けは、ほんの一瞬の時間で、美和はすぐに唇を離した。


「美和さん…」

「篠倉君の顔見てたらついしちゃった」

美和は悪戯をした子供のように笑った。

「ズルいですよ」

「そうだよね、ごめんね」

「初めては僕の方からって色々心の準備してたのに…」

篠倉は心底落ち込んだような顔をした。

「そ、そうだったの!?」

「はい、シチュエーションまで考えてシュミレーションしてました」

なんとも真面目な篠倉らしかった。

「じゃあ次は、篠倉君からしてくれるの待ってるね」

そう言うと、篠倉は少し元気を取り戻した。


「そ、それにしても、お兄さん帰って来ないですね」

「うん………」

篠倉は照れ隠しのつもりで言ったのだが、美和は一気に現実に引き戻された思いがした。


「今夜も帰って来なかったらどうしよう…」

「心配ですよね…」

「夜になっても帰って来なかったら、篠倉君、うちに泊まって行ってよ」

「ええ!!ほ、本気で言ってます…?」

「だって近くに居てくれるって言っても怖いし、不安だし。呼び出しても来てくれる間に泥棒とか入ったらどうする?」

美和は真剣なフリをして聞いた。

それを聞いた篠倉は、暫く黙ってしまった。どうやら熟考しているようだ。




「………分かりました。但し、距離を置きましょう」

「距離?」

「お互いの半径1メートル以内に近付かないようにしましょう。それなら考えます」

「…手を繋ぐのもダメなの?」

「も、勿論です!」

「そう言えば、私達手を繋いだ事まだなかったね」

「手を繋ぐより先にキスしてきましたからね、美和さんが」

ワザと怒ったように篠倉が言った。

「あははっそうだね」

「笑い事じゃないですよ」

「そっか、ごめんごめん」

「それより、約束してください。半径1メートル以上近付かないって」

「ちぇーっ分かったよ」

「じゃあ今から始めましょう」

「今からかー…21時からにしない?」

「しません!そもそも美和さんが一人の家にあがってる事自体が問題なんですから!」

「本当に頑固だなぁー篠倉君」

「当たり前の常識的な行動です!」


篠倉は早速、美和から1メートル程距離を置いた。


「はぁ…つまんないの」

「何がですか!なんか美和さんキャラ変わってませんか?」

「そう?多分、これが本当の私なんだよ。篠倉君の前では本当の自分になれるの」

「それなら…嬉しいですけど」


そうして二人はなんやかんやと雑談しながら、距離を置きつつ時間を過ごした。


美和がソファでうたた寝を始めたので、置いてあった膝掛けを美和にかけ、篠倉は一人で朝方まで起きていたが、陽平は帰っては来なかった。













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