第55話

窓には引き裂かれたように破れたカーテンが吊り下げられ、机の上に積み上げられた参考書や教科書は崩れて床にまで散らばり、ゴミはそこかしこに溢れ、何かの破片…恐らく食器の破片が落ち、何より、白い壁には赤い字で「人間失格 さようなら」と書かれていた。


「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

その惨状を見た美和は悲鳴を上げた。

そんな美和を抱きしめながら、篠倉も呼吸を整えるのが精一杯だった。


そうしてアヤナの言葉を思い返していた。


〝美和ちんのお兄ちゃん、自殺しちゃったんだって〟


あの時のアヤナの泣きそうな表情まで、つぶさに思い出せる。

そして、脳に直接カウンターを食らったような衝撃。ずっと感じていた違和感が、腑に落ちた瞬間だった。

あの日、この家に初めて訪れた時、美和さんはお兄さんと会話しているのかと思っていた。お兄さんの声が遠くて自分には聞こえないのだと。しかし、そう言い聞かせてもずっと拭えなかった違和感。それが、こんな形で解けるとは…。


美和は篠倉の腕の中で、叫びながら嗚咽していた。



そんな筈ない!そんな筈ない!

お兄ちゃんが居ないはずがない!


そう叫びながら、陽平が遺体で発見されたと警察から連絡を受けた時の、母親の断末魔のような悲鳴を今まさに聞いたかのように生々しく思い出していた。

そして脳裏に蘇る陽平とのやりとり、そして…母親の顔にクッションを押し付ける…自分の姿…。


そこで美和は、プッツリと回路が途切れたように気を失った。











白い壁に白いドア、白い天井…ここでは何もかもが真っ白だ。学校帰りの僕は廊下に点在するソファに座り、美和さんの回復を待った。


あれから5日…美和さんは時折目を覚ましては何かをうわごとのように話し続けるだけで、こちらからどんな質問をしても、応答は無い。

精神的負荷がかかりすぎたのだろう、と医師は言った。



「こんにちは、篠倉君」


上品で優しそうなその声に、僕は顔を上げた。


「岸谷さん…こんにちは」


美和さんの近所に住む岸谷さんは、5日前、僕が救急車を呼んだ時、騒ぎを聞き付けて駆け付けてくれた人だ。


「美和ちゃんはどう?」

その言葉に、僕は首を横に振る。

「変わらないです」

「そう…」

岸谷さんは悔しさと悲しさが混ざった顔で唇を噛み締めた。

「本当に後悔してるわ。美和ちゃんの異変に気付いていながら、何もできなかった事…」

「岸谷さん…」

「もう二年経つのかしら、陽平君が亡くなって。あの時はね、美和ちゃんも陽子さんも見ていられないくらい憔悴し切って…本当に痛々しかった。近所の皆で本当に心配したものよ。だから、それから少し経って、陽子さんが『陽平は海外に父親の転勤に着いて行った』と言い始めた時は驚いたけれど、そう思う事で陽子さんが立ち直れるなら…と皆でその嘘を信じるフリをしたの。それがいけなかったのね」

岸谷さんは段々と涙声になった。

「それからその嘘を美和ちゃんも口にするようになって…きっと陽子さんの影響を強く受けてしまったのね。心配で、何度かお家の事を聞き出そうとしたのだけれどうまくいかなかったわ。陽子さんは私を疑うようになってしまった」

「それで僕にも美和さんの事を聞いたんですね」

僕の言葉に岸谷さんは頷いた。

「あの時は、ごめんなさいね」

「いいえ、僕も、岸谷さんが美和さんちを監視しているだなんて疑ってごめんなさい」

「監視…でもあながち間違ってないわ。主人からも、美和ちゃんの家の事をよく見ておくように頼まれていたから」

「旦那さん…ですか?」

「ええ。あ、ちょうど来たわ」

岸谷さんが向けた視線の方に目をやると、スーツを着た二人組が現れた。


「初めまして。刑事課の岸谷です」

その内の一人が、警察手帳を見せながら自己紹介をした。

岸谷さんの後ろに居たもう一人も「蒼井です」と、警察手帳を見せて頭を下げた。


「篠倉です、初めまして」

僕も軽く会釈を返した。

「じゃああなたが岸谷さんのご主人ですか?」

刑事の岸谷さんは優しそうな笑顔を向けてくれた。その笑顔は岸谷さんに少し似ていた。

「そうです。君からも事情聴取をしなければならなくなると思うんだが、いいかな?」

「事情聴取…はい、僕は構わないですけれど。何かあったんですか?」

「詳しくは署の方で話そう。後日、呼び出しが来ると思うから」

岸谷さんは心配そうに僕らのやり取りを見ている。

「あなた、篠倉君はまだ学生なのだから、お手柔らかにね」

「分かっている。今回の事件と篠倉君が関係の無い事もね」

そう言いながら刑事の岸谷さんが僕を見た。

「それじゃ、美和さんの担当医と話があるから行くよ。すぐにまた来るから」

そう言うと、岸谷さんと蒼井さんは、静かに去っていった。


事情聴取…何か事件になるような事があったのだろうか…それとも…


僕の雰囲気を察した岸谷さんが、僕の背中に手を置いた。

「これから何があっても、決して自分を責めないでね。何があっても、強く生きていくのよ」

「岸谷さんは何か知っているのですか?」

僕が聞くと、岸谷さんはひどく悲しそうな顔をした。

だから、僕はそれ以上聞くのをやめた。それに、どうせ事情聴取の際に聞かされるのだ。今じゃなくてもいいだろう。僕は美和さんの病室のドアを見つめた。

明日にはアヤナさんと新井さんも面会に来ると言っていた。そこで少しでも回復の糸口が見つかればいいのだが…。

僕は美和さんの笑顔を思い出しながら、1日でも少しでも早く元の美和さんに戻ってくれるように祈った。






「岸谷巡査、庭に埋められていた遺体は、やはり藤枝美和の母親なんでしょうか?」

岸谷と蒼井の二人は車に向かいながら、この件について話していた。

「恐らく…十中八九そうだろうな」

車のドアに手をかけながら、岸谷は遠い目をした。

「母親は海外に行ったと言っていたそうだが、渡航歴には母親の名前はどこにも無い。それなら…と考える方が自然だろう」

「そうですか…あの少年に言いづらいですね」

「仕事だからな、慣れろ。慣れるしかない。それにしても…妙な事が一つあるな」

「何でしょう?」

「藤枝美和の、あの華奢な体で、母親の遺体を裏庭まで一人で運んだのか?あんなに深く土まで掘って」

「協力者が居る…という事でしょうか?」

「そうだな、あるいは…」

岸谷は車に乗り込んだ。

「刑事なんてやってると、人知の及ばない、説明のつかない事にも出くわすもんだが…」

「岸谷巡査?」

岸谷に続いて、蒼井も車に乗り込んだ。

「今回の事件は、それの一つかもしれん」

「刑事のカン…ですか?」

「そうだな。笑ってくれてかまわないが」

「そんな!僕は岸谷巡査を信じます!」

岸谷は蒼井に、複雑な笑みを見せた。

蒼井が車のエンジンをかけ、二人は走り去った。









白い天井、白い壁に、白いドアに、白いベッド。窓枠には鉄格子。

ここはあの家と何も変わらない。


お兄ちゃん…隠れん坊して遊ぼうよ…ママから逃げちゃおう。

お兄ちゃん…お兄ちゃん…ずっと一緒よ、お兄ちゃん。






























  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白い家(仮) 水都クリス @chrischan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ