第19話
「何か元気ないですか?」
篠倉が美和に話しかけた。
雨上がりの午後、二人は裏庭のベンチに座っていた。湿った土の匂いが充満していて、涼しい風が吹いて、心地よい午後だった。
「うん、ちょっと、色んな事があって」
「そうですか…」
篠倉は打ち明けて欲しいと思いながらも、それ以上は聞かなかった。
美和は、全て篠倉に話してしまいたい気持ちをやっとの思いで飲み込んだ。
「変な事聞いていい?」
美和が尋ねた。
「なんですか?」
「幻聴ってさ、本当にあるのかな。あるとしたらどういう時に起きるんだろう?」
「幻聴ですか!?」
美和の意外すぎる問いに驚きつつも、篠倉はスマホを取り出した。
「えっとですね…幻聴でググると〝「幻聴」とは「ないはずの音や声が聞こえる事」。 統合失調症で特徴的な症状です。 対話、命令、考えの言語化など様々な形を取り、統合失調症以外でも生じえます〟って書いてありますね。」
「とうごうしっちょうしょう?…ってなに?それ」
「えっと…待ってくださいね」
篠倉は再びスマホで何やら探してくれているようだ。
「うーん、一言で言うと精神病の病名の一つみたいです」
「精神病…」
やはりママは心に不調をきたしているんだ。やっぱり私がどうにかしてあげないと。
「ありがとう篠倉くん」
美和は無理して笑顔を作った。
「…大丈夫ですか?これ、僕のスマホの番号です。いつか渡そうと思ってました。何かあったらいつでもかけてください」
篠倉はノートの切れ端に書かれた番号を渡した。
「ありがとう。本当にありがとう」
美和は嬉しそうにそれを受け取った。
美和は、駅前にいくつか「精神科」と書かれた病院があるのを思い出していた。
あそこに連れて行けばいいのかな?
でも幻聴だなんて、ママが変な人だと思われないかな。高校生の私が連れて行けるのか、そもそもママが素直に行くとは思えないし…
「本当に大丈夫ですか?何かあったらいつでも力になりますから」
篠倉の言葉に、全て吐き出したい気持ちになる。でもどこから話せばいいのだろう。
「ありがとう、いつか話すね。」
美和の笑顔が力無くて、篠倉は自分の無力さに自分を殴りたい気持ちになった。
「教室戻ろっか…」
昼休みもあと5分で終了というところで、美和が声をかけた。
僕は美和さんにとって頼りない存在なのだろうか。何かを抱えているなら、半分でもいいから一緒に持ちたいのに…それは許されない事なのだろうか。
美和さんが幻聴について調べていた。それは一体誰が?美和さんが幻聴が聞こえたのだろうか…そうは見えないけれど。ここまで考えて、篠倉は考えるのをやめた。いつか全て話してくれる日が来るだろうか。僕はそれまで待つ事にしよう。
ママを病院に連れて行く方法を考えなければならない。
さっきも思った事だが「精神科に行こう」と言った所で素直に聞くはずがない。
それどころか、聞こえなかった私の精神の方を疑われる可能性が高い。
そうだ、パパに相談しよう。
でも電話に出てくれないかもしれない…しつこく鳴らせば、出てくれるだろうか。
そうだ、今は緊急時なのだから、しつこく鳴らしても怒られないだろう。
今夜、ママの目を盗んで電話してみよう。
美和は学校から帰ると、陽子が寝静まるのを待つ事にした。
そして真夜中ー
陽子の部屋をこっそり覗くと、陽子は静かに寝息を立てている
ママに聞こえないように、電話機の子機を自分の部屋に持って行こう。
予め子機の電話帳に登録してあるはずのパパの番号を探すと、すぐに出て来た。
どうしよう、これでパパが出てくれなかったら…それとも迷惑がられたら?
いや、今はそんな事言ってる場合ではない。
緊張しながらも、美和は意を決して通話ボタンを押した。
呼び出し音が大きく聞こえるほど、あたりは静寂に包まれていた。
何回呼び出し音が鳴っただろう。
パパは出てくれない。もう切ろうか…と子機を耳から離した時だった。
「もしもし?」
寝ていたのか、疲れた様子のパパの声がした。
「パパ?私。美和」
「おお、美和か。母さんかと思ったよ。こんな夜中にどうしたんだ?」
父親のいつもの調子の声に、美和は心からホッとした。
「ちょっと、ママのことで気になる事があって…」
「母さんに何かあったのか?」
美和はありのままを話した。お兄ちゃんが最近ご飯を食べてくれない事。今でも煩くするとドアや床を叩いて抗議される事、ママに幻聴らしき症状が現れた事まで、最近の出来事は、篠倉の事以外全て話した。なのに、父親の返事は冷たいものだった。
「そうか、もう母さんの事は放っておきなさい。それより、学校の方はどうだ?友達できたか?」
パパになら言っても差し支えないだろう。
「うん、ママには内緒だけど、篠倉君って友達ができたの。優しくて、すごくいい子だよ」
「そうか、よかったなぁ。パパは美和の事だけが心配だよ」
私だけの事…?お兄ちゃんは?ママの事は心配じゃないの?
「パ…」
「おっと、もうこんな時間だ。そろそろ切るよ。明日も早いんだ。また電話してくれていいから。それじゃあ、元気でいるんだぞ」
パパ…!と呼ぶ間も無く、電話は一方的に切れてしまった。
結局、何も得られなかった。
ママの事は放っておけって言うけど、パパは一緒に暮らしてないからそんなことが言えるのよ。
パパはいつ帰ってくるかも聞けばよかった。
そう言えば、パパが電話を切る一瞬、知らない女の人の声が聞こえた気がする…気のせい?ううん、確かに聞こえた。
まさかパパが浮気…?
だから全然こっちに帰ってこないの?
静寂と暗闇に包まれた部屋で、美和は静かに絶望した。
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