第18話

最近、娘の様子がおかしい。

陽子は美和の変化目敏く気付いていた。


ある日、美和がいつものように学校へ行く支度をしていると、陽子が話しかけてきた。

「なーんか妙だわね」

陽子は片眉を上げて美和を見た。

「妙って?何が?」

「前は嫌々学校に行ってるのがあからさまだったのに、最近妙に楽しそうじゃない」

「そんな事ないよ…てか、娘が楽しそうなのは良い事じゃないの?」

美和の質問に陽子は答えず、

「まさか彼氏でもできたんじゃないでしょうね?」

陽子の質問に、美和はぎくりとした。正確には友達だが、陽子は美和に友達ができるのも良く思っていない事を美和は知っていた。

「彼氏なんて出来てないよ」

美和は嘘はついていない。

「じゃあ友達でも出来たのね?」

陽子は美和が思っている以上に鋭かった。

まるで嫌悪感でも抱くように、陽子は眉間に皺を寄せた。

「違うよ、そんなの居ない」

「本当でしょうね」

「本当だってば、どうしてそんなに聞くの?私に友達ができたら何が問題なの?」

「友達ができたら、あなたの事だからお兄ちゃんの事を話してしまうかもしれないからよ。そんなことしたらすぐに噂は広まるんだから。そうなったら全て終わりよ!ここの家を捨てて引っ越さなきゃならないわ!」

この一言は、美和の怒りを引き出すに充分であった。

「ママは私やお兄ちゃんよりもこの家が大事なんだね!」

「そんな事…誰も言ってないでしょう!」

「言ってるのと同じだよ!私に友達ができてほしくないんでしょう!?」

「本当に生意気な子ね!昔っからあなたはそう!ママに逆らってばかり!」

「ママがひどい事言うからよ!」

「大きな声出さないで!お兄ちゃんが怒るわ!」

ママの方がよっぽど大きな声じゃない!そう美和が言いかけた時だった…

「ホラ!お兄ちゃんが怒ってる!」

母は怯えた顔をしたが、美和には何も聞こえない。

「…?何を言ってるの?」

ママが何か変だ。

「聞こえるでしょ!扉をドンドン叩いてるじゃない!」

「ママ?」

「ほら!部屋で暴れてる!」

陽子は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。

美和は思わず駆け寄って、陽子の背中をさすった。

「ママ落ち着いて。何も聞こえないよ」

「貴方のせいよ!貴方が大きな声出すから!」

母は本気で怯えていて、嘘をついてるようには見えない。

まさか…幻聴?

どうしたらいいか分からず、美和は背中をさすり続けた。

「………おさまったみたい」

陽子は頭を抱えていた手を放して2階を見上げた。

「ママ落ち着いて。最初から何も聞こえないよ?」

美和の声は陽子には届いてないようだった。

「もう争うのはやめましょう。もう充分。これ以上お兄ちゃんを刺激しないで」

陽子は怯えた表情のまま、フラフラとした足取りで美和の部屋から出て行った。


取り残された美和は、呆然としていた。

私には本当に何も聞こえなかった。

しかし、本当にママの幻聴なのだろうか?もし私にだけ聞こえてなかったとしたら…?と、ここまで考えて、それは無いと思い直す。

だとしたら、陽子の様子がおかしいという事になる。

無理もないかもしれない。この生活を始めて一年経った。

その間、なるべく音をたてないよう、お兄ちゃんを刺激しないように生活して来た。

玄関を開ける音にさえ気を遣い、ドアや床を叩く音に怯え、空いた壁の穴を塞いで…美和は慣れてしまったが、陽子には無理だったのだろう。

毎日同じ時間に三食作り、一口も食べてもらえず返ってくるご飯を、どんな気持ちで眺めていたのだろう。


そう思うと、美和は母親に少し同情した。


私がしっかりしなくちゃ。私だけはこの家で平常でいなくちゃ。私だけがこの家を、家族を支えられるんだ。

美和は自分を奮い立たせるように、言い聞かせた。





美和が学校へ行くと、陽子は怯えながらも時間になると、フラつく足取りでキッチンに向かった。

冷蔵庫から玉ねぎを出してみじん切りにする。それをボールに移し、パン粉、卵、合挽肉を入れて塩胡椒、ナツメグを入れると、右手にビニール手袋をはめてそれらを一気に捏ねた。

全体に大きく捏ねて、肉に粘り気が出てきたら手袋を外して、ボールにラップをかけて冷蔵庫で寝かす。


陽平はこのハンバーグが大好きだった。


人生には思わぬ事が起きる。それを人は時に挫折と呼ぶのだろう。

それは分かっている。分かっているつもりだった。しかし、小さい頃から何不自由なく育てられ、この顔のおかげで望むものは大抵手に入ったし、大抵のことが叶った。私の人生において思わぬ事とは、大半が嬉しいサプライズの事だった。

陽平も私の望む以上にいい子に育っていた…筈だった。何が間違っていたのか、何度考えても答えは出ない。


T大にさえ受かっていれば、あの子はあのまま素直ないい子だった筈だ。

さっきのあの物音は、扉を叩いていただけじゃない音だった。きっと部屋で暴れたのだろう。


今頃部屋はどうなってるのだろう。


私の作った夕飯を食べず、どうやら深夜出かけてコンビニか何かで買ってきているようだ。

お金はどうしているのだろう?聞きたい事が山程あるが、どんなに扉をノックしても、怒らせるだけで決して開けてはくれない。


陽子は大きくため息をついた。



美和だけが…あの子だけは私の人生で数少ない、悪い方の予想外の事と言える。


私にも夫にも似ず、容姿は並以下。

勉強もできず、家でやる事と言えば勉強ではなく絵を描く事と日記を書く事。まさか、そんな子が私から産まれてくるなんて思わなかった。

陽平に似た、美しい女の子を産むつもりだったのに…そうしたら私の手作りの服を着せて、リボンで髪の毛を飾って、お姫様のように育てたのに…そうしたら多少勉強が出来なくても許せたのに。


そうよ、あの子が。


あの子が産まれて来てから何もかも崩れ始めたような気がする。

傭兵と比べると、悪い所ばかり目についてしまう。


主人はあの子にきちんと特別な愛情を抱いたが、私にはどうしてもそれが出来ない。

こんな事言ったら母親失格なのはわかっている。けれど、どうしても思わずにいられない。

あの子さえ居なければ、今とは違う結果になっていたんじゃないか、と。

昔から陽平の言う事はよく聞くのに、私には逆らってばかり。


そうよ、あの子さえ居なければ…


その時、ご飯が炊ける音がして、陽子はハッと我に帰った。

いけない。こんなこと考えるなんておかしいわ。


でも考えずにいられない。あの子さえ居なかったら、と。

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