第22話
辺りは静かだった。
母の声どころか、外を走る車の音も、子供の声も、鳥の声も聞こえない。
本当の静寂だった。
「ママ!?」
我に帰り、慌てて階段を降りると、ママはうつ伏せで倒れていた。横から手を差し込んで母 ママの心臓に手を当てると、僅かだが心臓の音が聞こえた。
「ママ!」
激しく揺すると、頭の向きがゴロンと変わって、目を見開いた陽子と目が合った。
「ひっ!」
思わず悲鳴をあげて陽子から手を離した。
心臓が破裂しそうに高鳴って、手が震えた。
「ママ!ママ!」
何度呼んでも返事は無い。
私が…蹴ったから?
だからママは落ちてしまった。
「そうだ、救急車呼ばないと」
美和は震える手で受話器を持ち上げて止まった。
でもなんて言えばいい?私が蹴りました。だから母は階段から落ちました?
何故蹴ったんですか?と聞かれたら、母が叩いたからですって言うの?
そうしたらどうなるんだろう…児童相談所とかに通報されちゃうのかな。ママが捕まっちゃうの?
それに…今救急車が来たら、お兄ちゃんの事も皆んなにバレてしまう… 何より、意識の戻ったママに強く叱られるだろう。
美和は受話器を持ったまま、動けないでいる。
すると、誰かが階段を降りてくる音がした。
「あーぁ、やっちまったなぁ」
美和は虚ろな目をそちらに向けたが、次の瞬間、驚きのあまり後ずさった。
「お兄ちゃん!」
そこには引きこもる前となんら変わらない姿の陽平が立っていた。
陽平は陽子の口元と鼻に手をかざすと、
「やっちまったな、美和」
と、先程と同じセリフを口にした。
美和は恐ろしさよりも、あまりにも意外な人物の出現にショックを受けていた。
「お兄ちゃん…どうしてここに?」
「そりゃあれだけ物凄い音がしたら見に来るさ」
お兄ちゃんは何があっても部屋から出て来ないような気がしていた。
「それより、どうするんだ?」
陽平は至極冷静に美和に問うた。
「どうするって…あ…」
美和は自分のやってしまった事の恐ろしさを改めて思い出して、また震え出した。
「そんなつもりじゃなかったの。ママが足を掴むから、怖くなって…」
「うん。わかってるよ、美和は悪くない」
陽平は美和に言い聞かせるように言った。
「美和と母さん、言い争いしてただろう?こっちにも聞こえて来てたよ。そこから逃げるためにこうなっちゃったんだろう?母さん酷い事言っていたし、美和は悪くないよ」
「お兄ちゃん…」
もっと怒られて責められるかと思ったのに、陽平は優しかった。やはり、人の性根は変わらないんだ。お兄ちゃんは昔から優しいけど、今も優しいんだ。
久しぶりに陽平の優しさに触れられて、美和は涙が溢れた。
「これからどうしよう…」
涙目の美和が呟いた。
「心配ないさ」
陽平はソファに置いてあったクッションを手に持つと、陽子の元へ向かった。
ママの頭の下にでも敷くのかな…?
美和はそう予想していた。
だが陽平は美和の予想もしなかった事をした。
陽平はクッションを陽子の顔に思い切り押し付けた。
「何するの!?お兄ちゃん!」
美和の言葉が耳に入っていないかのように、陽平は美和の声を無視した。
暫く抑えていると生理現象なのか、陽子の手足はビクビクと痙攣した。
「やめて!お兄ちゃん!」
美和は陽子から陽平を引き剥がそうとするが、とてもじゃないけど引き剥がせそうにもない。凄い力だ。
「お兄ちゃん!」
美和はもう半狂乱になって必死で陽平を退かそうと、今度は腕を叩いてみるが、やはりびくともしなかった。
そうこうしている内に、陽子の手足の痙攣は止まった。
「マ…ママ…?」
陽平は漸くクッションを陽子の顔から退けてくれた。
そこには、先ほど倒れたまんまの表情の陽子が居たが、そこには生気が感じ取れなかった。
心臓に触れてみても、何の音も聞こえない。
「お兄ちゃん…どうして…?」
美和はそれだけを言うので精一杯だった。
その言葉を口にすると、美和の意識は遠のいていった。
夢を見た。
パパが庭のガーデンチェアに座って、こちらを見て微笑んでいる。
美和はお兄ちゃんと芝生で転げ回り、大笑いしている。ふざけて遊んでいると、喉が渇いてきた。それをママに伝えると、ママが自家製レモネードをガーデンテーブルの上に乗せる。
あぁ…アレは夢だったんだ。
そうよね、お兄ちゃんがママを殺すはずが無い。ママだって…
「美和。可愛い美和ちゃん」
ママだ!ママが呼んでいる。私は喜び勇んでママの元へ走った。
「美和ちゃん…美和ちゃん…」
ママは笑っている。
「美和ちゃん…どうしてあなたが産まれたの?」
ママの顔は崩れて、階段の下で倒れていた時のママになる。
「キャー!!!!」
悲鳴をあげて飛び起きると、そこはリビングのソファの上だった。美和は自分の悲鳴で夢から醒めたのだった。
部屋はもうすっかり暗い。窓を見ると、外はもう夜だった。
「起きたか」
陽平がグラスに入った水を片手にやってくる。
「お兄ちゃん…」
陽平は美和を見るとニッコリ笑った。
「ソファに運ぶの大変だったよ。お前、大きくなったなぁ」
陽平が美和の頭を撫でようとした時、つい美和はその手を跳ね除けてしまった。
陽平は一瞬傷付いた顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻した。
「そりゃあ嫌だよな、もう子供じゃないんだから」
「ご、ごめんなさい」
「謝るなって、ほら、水飲め。汗びっしょりだぞ」
陽平が差し出したグラスを受け取り、口に運んだ。確かに、喉が渇いていた。
陽平は一人分の隙間を空けて、美和の隣に座った。
「お兄ちゃん…」
聞きたい事は山程ある。
でもそのどれも、本当に知りたい事に比べればどれもどうでもいい事な気がして聞けなかった。
「仕方なかったんだ。あぁするしか無かった。母さんだって、俺が引きこもりな事が世間にバレるよりは良いと思ってるさ。あの人が一番恐れている事は、俺が海外になんて行ってない事が世間にバレる事なんだから」
美和の心を見透かしたように陽平は言った。
「でも、だからって…」
殺すなんて?でもあそこでお兄ちゃんが現れなくても、私にはどうしていいか分からなかった。
結果、見殺しになっていたかもしれない。
すぐに救急車を呼ぶという簡単な選択さえできなかった私には、お兄ちゃんを責める権利は無い。
「やっぱり、何でもない」
美和が言うと、陽平は話題を逸らすように言った。
「美和の手紙読んだよ、書いてくれてありがとう」
「え、あ、手紙…そうだ、書いたね」
そうだ、手紙を渡した頃は、ママがこんな事になるなんて思ってもみなかった。
「母さんの幻聴、俺のせいだろ?」
「そんな…!そうじゃないよ!ママはきっと、ずっと情緒不安定だったんだと思う。パパの事もあって…」
そうだ!パパ!パパになんて言えばいい!?
「美和?」
「どうしよう…パパになんて言えばいいの…?」
パパだけじゃない、世間にも、なんて言えばいいんだろう。
お兄ちゃんは…ううん、私達兄弟は人殺しだ。
「美和、心配ないよ」
美和は何も言わなかった。
「母さんを、埋めよう」
その時、雷が近くに落ちて、お兄ちゃんの顔を青白く染めた。
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