第15話

窓ガラスに雨がぶつかって、線状の跡を描く。家の壁も心なしかじっとりと湿っていて、梅雨の訪れが近い事を告げていた。


「雨の日は頭が痛いのよねぇ…」

そのせいか、今日の陽子の機嫌は悪かった。

最近、割と穏やかだったのになぁ…と、美和は思いながら朝食のパンに齧り付いた。

「庭の紫陽花も咲いてきて綺麗だね」

美和は機嫌を取るつもりで言った。

「そうでしょう、アガパンサスも植えたからそろそろ咲くはずよ。紫陽花と並んだら、青のグラデーションになってとっても綺麗だと思うわ」

陽子の機嫌が少し上向きになって、美和はホッとした。

「梅雨が終わって夏になったら向日葵も咲くわ。陽平が好きだったのよね、向日葵」

夏…また暑い夏が始まるのか。美和はげんなりした。


「あぁ、もうこんな時間!朝ごはん食べたら陽平に朝食持って行ってくれる?」

美和の目の前に目玉焼きと、パンやサラダが乗ったお盆が置かれた。

嫌な事は早く済ませてしまおう…

「今置いてくるよ」

美和は席を立つと、お盆を持って2階に上がった。

このご飯だって、きっと食べてはもらえない。


それでもママは三食必ず作る、それを続ければ、お兄ちゃんがいつか外に出てきてくれると信じているのかもしれない。

私だって信じたい。

階段のミシリという音にハッとする。お兄ちゃんから抗議が来ないか、怯える。

日常の些細な音にも気を使う、こんな生活いつまで続くんだろう。


陽平が直接美和や陽子に手を出した事は無い。それでも、抗議の音がすると、また暴れるんじゃないか、また壁に穴を開けられるんじゃないかと怯えてしまう。


2階に上がり、手付かずの夕飯を下げ、出来立ての朝食を扉の前に置いて、3回ノックした。


この扉を強引にでも開けてしまったら、何か変わるのだろうか。そんな考えが頭を擡げる。

たった一枚の板の向こうの事なのに、こんなにも遠い。



美和は一階に戻ると、机の上に手付かずの夕飯をダイニングテーブルに置いた。

冷め切った冷たい夕ご飯に、我が家を見る。

お兄ちゃんが居ないと、この家の灯りは消えたかのように暗い。


「持って来てくれたのね」

陽子は顔色ひとつ変えずに夕飯を生ゴミ入れに入れた。

「さて、と。パパに電話しようかしら」

「パパ、元気?」

「さぁね。最近電話に出ないから」

「忙しいのかな?」

「そうじゃない?」

嘘。パパは嘘つきだ。一、二年で帰ってくると言ったのに、仕事があると言って帰っては来ない。

電話も滅多に出てくれない。お兄ちゃんが引きこもってから、ずっとそうだ。

毎日毎日ママの愚痴を聞くのは確かに疲れるだろうけれど、私の心配もしないのだろうか。今の高校に受かった時も、電話で「おめでとう。お金を贈るからママに好きな物を買ってもらいなさい」と言うだけだった。

パパは体良く逃げたのだ。この白い家から。パパにとってここは安らげる場所じゃないのだ。


外は雨が降っている。今日は裏庭には行けない。私の居場所は、どこにあるんだろう。





雨が降っていて裏庭に行けないので、美和は仕方なく、高校に入学してから初めて教室でお弁当を食べる羽目になった。

屋上階段は確認していない。もし誰も居ないと思って座ったとしても、後から人が来たらきっと気まずい思いをするからだ。


昼休みの教室は、やはり如何にもこうにも居心地が悪い。

独りぼっちの美和を見て、揶揄う人は居なかったけれど、遠目にヒソヒソと美和の事を話す人や、気を遣って「私達と一緒に食べない?」と言ってくれるグループもあった。気を遣われるのが一番惨めだ。

ヒソヒソ連中は無視して、気を遣ってくれるグループは丁重にお断りした。

しかし、そうすると「変わり者」「暗い」というレッテルがより濃くなる。


篠倉君は昼休みになるとどこかへ行ってしまっていた。雨の日用の居場所があるのかもしれない。

「いいなぁ…」

その場所も聞いておくべきだった?いや、流石に迷惑だ。

美和はため息をつきながら卵焼きを食べた。

こうしてる間にも、クラスの皆んなから視線を向けられているような気がする。自意識過剰だけど。


その日の帰りの事だった。いつものように下駄箱から靴を出すと、中に何か紙が入っていた。

まさか嫌がらせ?美和が恐々その紙を見ると、そこには〝明日の昼休み理科準備室に来て下さい、篠倉〟と書いてあった。

理科準備室?どういう事だろう。


不思議に思いながらも、翌日理科準備室へと向かった。


ガラガラ鳴る古い戸を開けると、そこには篠倉くんがお弁当を広げて待っていた。


「来てくれてありがとうございます!今日からここでお弁当食べましょう」

「どういう事?ここって勝手に入っていいの?」

「勝手じゃないですよ、理科の先生に許可貰いました」

「許可なんてもらえるの?」

「はい、実は僕、理科だけはテストの点数良いんです。それで理科の先生に普段から勉強聞きに行ったりしてたので、思い切って昼休みに勉強したいから理科準備室貸して欲しいと申し出たら、なんとすんなり許可がおりました」

「そんな事あるんだ…」

「今日からここでお弁当食べませんか?」

篠倉は嬉しそうに、理科準備室の鍵を見せた。

理科室は埃っぽくて、薬品やら難しそうな本やら、人体模型があったりして、正直食事をするには向いてない場所と言える。

しかしそれでも教室より100倍マシだった。


それにここなら誰かに見られるかもと怯える心配も無い。


「篠倉君、ありがとう」

美和は心からお礼を言った。

「そんな…大した事してないですよ」

篠倉は照れ隠しに髪を耳にかけた。


これで教室でお弁当を食べなくて済む事より何より、篠倉が自分の為にここまでしてくれた事が嬉しかった。



「僕、明日蝉を放そうと思うんです。」

篠倉が満を持したように言った。

「唐突だね。どうしたの?」

「僕、こうやって藤枝さんと話すようになって思ったんです。自由が欲しいだろうなぁって。自由になってあいつも友達作ったりしたいだろうなって。」

「友達…」

「あ、すみません!図々しく!」

「ううん。嬉しい」

美和は心からそう思った。高校生になって、初めて出来た〝友達〟という存在。本当はずっと欲しかった。

「じゃあさ、セミを放す時、私も一緒に居ていい?」

「本当ですか?ありがとうございます!」

「お礼言うような事じゃないよ。私こそ、お別れの場面に居ていいのかな?」

「勿論。嬉しいです。」

篠倉はニッコリと笑った。美和はホッとして、言ってよかったと思った。

「それで、いつ放すの?」

「明日の朝ではどうでしょうか?」

「明日の朝ね、了解。じゃあ早めに来て、まだ誰もいない時間に放すのがいいね」

「はい、僕もそう思ってました」

そう言った時の篠倉は穏やかな笑顔だった。最初の頃より、笑顔を見せてくれる時間が増えた気がするのは、勘違いではないだろう。


この穏やかな日々がずっと続けばいい…美和は願ったが、悲劇は少しずつ近づいていた。


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