第10話

誰にも手を付けてもらえず、捨てられた昼食を見て、陽子は思う。


どうしてこんな事になったのか、未だに分からない。

息子は生まれた時から手のかからない良い子だった。

ミルクをよく飲み、抱っこすればすぐに寝て、夜泣きで親を困らせる事もほとんど無かった。


いつから間違えたのか、順を追って考えなければいけない。


まず、私が産まれた時。

産まれたばかりの記憶は勿論無いけれど、アルバムや母の話などからなんとなく予想はできる。

母が、私は産まれた時からすでに美しい赤子だったと言う。白い肌にツンと高い鼻、くっきり二重の大きな瞳。産院で、助産師さんから口々に褒められたと、嬉しそうに語っていた。


そしてよく言っていた。

「貴方のように美人な子はきっと良い所にお嫁さんに行けるわ」


私の母、つまり息子から見た祖母は、いつも微笑んでいて、いつも誰にも優しかった。私はそんな母を愛していたし、母からも愛されている自信があった。それは今もある。

父は仕事が忙しくてあまり小さい頃に積極的に世話をしてもらった記憶は少ないが、日曜日にはいつも遊んでくれていた。

それこそ、母がやらない体を使った遊び。プロレスごっこやら、高い高いやら…おんぶもよくしてくれた。

私はそんな父が大好きだったし、父から大いに愛情を受けた自信もある。

ピアノのお稽古、バレエのお稽古、一人っ子だった私はやりたいと言った事をなんでもやらせてくれた。


小さな戸建の家は古く、所々改修して住んでいたけれど、母が趣味で縫ったテーブルクロスやカーテンなどがセンス良く配置されて、住みやすい家だった。

庭には大きなグミの木が生えており、よくそれを取って母と食べた。あの甘酸っぱい味!市販の果物とは違う、母が手をかけて育てた、手作りの味。

季節の花もいつも咲いていたし、お天気の良い日には母手作りのクッキーをレジャーシートを敷いてお庭で食べた。


いわゆる、どこにでもある中流家庭。でも、春の穏やかな日差しがいつも差し込んでいるような暖かい家庭。それが私の育った家だった。


母の勧めで女子高、女子大に進んだ。

そうすれば変な虫は寄ってこないと母は考えたのだろう。しかし私は母の思う以上にモテた。

通学電車の中で声をかけられて告白され、入ったテニスサークルで他大学との交流試合をした時に何人もの男性にデートを申し込まれ、女友達に「男友達からどうしても陽子を紹介してくれって頼まれて」なんて事も何度もあった。とにかく男の人からの誘いが途切れなかった。

良さそうな人とは何人か、デートもした事がある。でも何か決め手に欠けて、ちゃんとお付き合いした事はなかったけれど。


母からは結婚するまで処女でいるように、とキツく言われていたのでそれでよかった。


そして出会った主人。

私が会社の研修で主人のいる本社に行った時に、主人から声をかけられたのだ。

初めて主人を見た時、第一印象でハンサムだとはおもったけれども、やはり主人も決め手に欠けた。

その後から、営業部のエースである事や、身長が高い事、次男である事、T大出、都内に実家がある事など結婚の決め手となるワードを知るのだが、結婚を決めた一番の理由はなんと言っても母が一目見て気に入ったからである。


「すぐに分かったわ。この人は誰にでも誠実な人だって。それにお土産のセンスの良い事!このストール、私の持ってる着物にとても合うわ。お会いした事が無いのに、不思議ねぇ。縁があったっていう事だわ。」


初めて私の両親に挨拶に来た時、主人は滅多に予約の取れないレストランで販売している洋菓子店と、海外出張で買って来た淡い色合いのストールを母に。私が父の好物だと教えたブランデーを持って来たのだった。


私はそんなもんか、という感じだったけれど、母から

「結婚するならあの人よ!プロポーズされてるんでしょう?受けなさい、あの人なら貴方を幸せにしてくれる。」

と、言われて、母がそこまで言うのならきっと間違い無いのだろうと、結婚を決めたのだった。


結婚の条件として、この家を建てる事を提示した。実家のように暖かい家庭にしたい。

白い家には大きな庭があって、季節の花を所狭しと植えて、私が手入れした芝生の上で子供達が戯れて遊ぶ。私はそれをガーデンチェアに座って微笑ましく眺めるの。

それ以上の幸せがありますか?私には想像できない。


だから条件として提示した。

主人はすんなりと約束してくれた。私はそれを愛の証だと思った。

まさか引っ越してすぐ海外勤務が決まるとは思ってはいなかったけれど…私は建てたばかりのこの家を他人に貸すのも、留守にするのも嫌で、単身赴任をお願いした。


そう、でもそれが正しかったのかは今となっては分からない。

男の子には男親が必要だったのかもしれない。


息子が生まれた時はそれはそれは嬉しくて、世界中の祝福がこの子に集まっているように感じた。ツンとした高い鼻もパッチリした目も、全て私にそっくりな可愛い子…!

主人も、その父親もT大出だったから、親戚や義母からも将来はT大を目指す事を諭されたのは、ごく当たり前のように自然な成り行きだった。

私もそれがこの子の幸せだと信じて疑わなかった。

女の子は名門出じゃなくても結婚に逃げられるけど、男の人はそうはいかないのだから。


でも息子は言わなくても自ら勉強をするような子で、私は口煩く言う必要も無かったから、ひたすら愛して育てた。

それこそ、どんな小さな事でも褒めて育てた。

その内妹が産まれても、妹の事をとても可愛がってくれていたし、皆からの人気者で、本当に良くできた子だった。私の夢見た通りの子。


中学生の時、サッカー部にに入りたいと言った時は勉強の邪魔になると反対したけれど、結局は私が折れたし、好きな事もやらせてきたつもりだ。


それが、何故…?


何故こんな事になってしまったの?


あぁ、あと女の子の事もあった。

スマホを勝手に見たのは悪かったけれど、それもあの子の為と思って、見たくもない息子のスマホを見ただけ。

例えばそこに彼女らしき女の子を見付けても、口煩く言うつもりは無かった。やんわりと注意をするくらいにしようと思ってた。


本当にそれだけ。


だから余計分からない。

口煩くせず、褒める所をきちんと褒めて育てて来たのに。あの子はT大に落ちたのは私のせいと言わんばかりに怒鳴り、当たり散らす。


何故?どこで間違えたのだろうか…?

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