第1話 銭湯の湯上りに心地良い春の夜風を受けて再訪を思ふ
陽は沈み、街はもう暗くなった。
甲府駅に近いホテルを出て、私は街の灯りを頼りに歩く。
3月末。昼間の暑いと思えるほどの暖かさと比べて、夜はまだ、寒いと感じるほどだ。ここが甲府だから、というのも、あるのかもしれない。
ポケットに小銭、片手にタオル。ひのきのぼうを持つ勇者と比較しても軽装だろう。弱そうだ。
目指すは一軒の銭湯。
初めての道だが、地図は頭に入れておいた。おそらく、大丈夫だろう。
途中、新天街という看板を見つけた。建物の間を四角くくり貫いたような小路があった。
この令和の時代に、そこからは昭和の匂いしか、しなかった。
おそらく、街並みの保存による観光客の誘致とか、そういうものとは縁遠い、ほぼ、ありのままに残された姿。
この小路に入っていったら、異世界転移をさせられそうだ。そんな気持ちになった。
思えば、銭湯に入るのも、ずいぶんと久しぶりだ。
あれは、廃止前のあけぼのに乗って青森から上野まで旅した時だったか。上野であけぼのから降りた後で、銭湯に入って体をほぐした覚えがある。
今回の銭湯は温泉だという。実に楽しみだ。
そして、目的地にたどり着く。外観は昭和の匂いを消していた。
扉を抜けて、中に入ると、右に男ゆ、左に女ゆ、の、のれん。
くつ入れは、木製の鍵で。
いい。実にいい。昭和の香りが漂ってくる。
靴箱をひとつ借りて、スニーカーを放り込む。ただ、既に歪みが出ているのか、鍵がかからない。
いい、実にいい。私のスニーカーを盗む人など、いないのだ。
男ゆ、の、のれんを上げて、扉を開き、中に入る。
番台にはおかみさんが一人。その番台の狭さもまた、いい。
500円玉を渡してお釣りを受け取る。昼前に入った下部温泉のおよそ3分の1という、良心的な価格設定。いや、下部温泉が観光地価格だということは理解しているし、そこに不満はないのだが。
目の前に、電子的な要素が何もない、武骨な体重計。
最高だ。
壁の上の方にずらっと並んだ板広告。
未だに営業しているところが、いくつ残っているのだろう。
テルマエ・ロマエの映画のポスター(平成)や湯道の映画のポスター(令和)があるのはご愛敬。
全面ガラス張りで中がはっきり見える浴室。
ああ、これぞ、銭湯。
さっきの扉はタイムトンネルなのかもしれない。
ここには昭和の匂いが充満していた。
あの頃は、自宅にお風呂がない家なんて、たくさんあったのだ。社宅住まいで風呂がないとかもよくあった。
さっそく脱衣ロッカーの方へ。
うん?
『松竹錠をつくれるところはもうありません。持ち帰っても、必ずお返しください』
そんな貼紙を発見した。
ホワッツ!?
……ああ、うっかり、この薄い金属の板鍵を持って帰っちゃう人がいるんですね。その人に、返すようにというメッセージですね。
『無断撮影禁止。浴室にスマホを持ち込むのはやめてください』
こんな貼紙もあった。
おおう。大惨事。ここ、お風呂だよ? みんなハダカになるんだよ? 何やってんの? 誰だ!?
確かに、この、昭和の香りが芳醇な場所を撮影したくなる気持ちはわからなくもない。
でも、それはダメでしょ。
……あ、無断、は、禁止、か。ということは、許可を得たら、と考えるのかもしれない。まあ、そこは新聞社とかテレビ局とかが本来の対象なんだろうが、今のSNS時代だと、個人も撮影したがるだろうなぁ。
許可を得たら、ここを画像に残せる。
でも、私はあえて、それはしない。それって、粋じゃない気がする。まさに無粋な感じだ。
ここの姿は心のシャッターを切って、自分の記憶に刻み込めばいい。
そんなことを考えながら、裸族となった私は、浴室へと突入した。
壁に富士山のタイル絵はなかった。山梨なのに。あ、いや。山なしだからか。
湯船は4つと、サウナもあるようだ。
まずは壁際で体を洗う。
シャワーが、ホースなしで、ステンレスの短くカーブした管で壁面のタイルと繋がってる。左右に首振りはできるが、それだけだ。
シャンプーやボディソープ、コンディショナーが入ったポンプディスペンサなんて存在してない。
うん。いいね。これぞ昭和。
ゴシゴシと体を洗ったら、湯舟に向かう。
まずはひょうたん型の、下の方の大きな湯舟から。ここはジェットバスっぽい。おそらく、ジェット機能は後付けなんだろう。
腰にジェットをあてて揉み解すように入る。
続いて、ひょうたん型の、上の方の小さな湯舟。こっちはジャグジーっぽい。でも、弱め。ジャグジー機能もきっと後付け。
さらに、アルファベットのBを縦線のところで線対称にしたような形の湯舟へ。ここはかけ流しの湯らしい。温めてはいるが、ぬるま湯だ。体温ぐらいか、ちょっと低いかも。その代わり、長時間、浸かっていられそう。
すぐ横にある長方形の湯舟は源泉らしい。手だけ入れてみたがとても冷たい。これは、サウナから出て入るところにはちょうどいいのだろう。水風呂的な役割だ。
ああ、いい感じ。のんびりと壁にもたれて、中央部に視線を動かす。
ザ、銭湯、という、上の部分で男湯と女湯で繋がっている空間に。いや、確かに、銭湯といえばこれなんだが。
いや、これ、花道とかルカワだったら、下手したら立ったままで向こうが見えちゃうよ!? ハルコさん、逃げて!? ……あ、でも、ルカワになら見られても、キャーっと叫びながら嬉しそうな顔をしてる可能性も微レ存。むしろ目がハートでは? そして、浴室で花道がルカワにケンカをふっかけてゴリキャプテンに二人そろってゲンコツをもらうテンプレ展開に。あ、リョータは無罪。身長足りないし。でも、ジャンプはした。見えなかったが。もちろん目的はハルコさんではなくアヤちゃん。モテそーなミッチーは完全にスルー。女湯に興味なし。
頭ん中で突然の妄想スラムダンク。映画のせいか? いや、ダンク並みに飛んじゃダメだ。向こうが見えちゃう。花道、リバウンドの練習は体育館でしろ。ここじゃないぞ。体育館だ。絶対に、だ。
うーん。でも、これも昭和かな。うん。スラムダンクは平成なんだが。
そんなこんな、てきとーなことを考えながら、普段よりもゆっくりと風呂を楽しんだ。
浴室でしっかりと体を拭いて、脱衣場へと戻る。タオルを絞るのは脇にある洗面台で。
脱衣ロッカーに松竹錠を差し込んで開けて、服を着る。
冷蔵庫を確認したが、フルーツ牛乳はなかった。その代わり、フルーツパインがあった。うん。これしかない。番台のおかみさんに150円払って、もちろん、腰に手をあててぐいっと一気飲みだ。
帰り道。濡れたタオルは行きよりもほんの少し攻撃力を増している。今ならスライム10匹は軽い。
春の夜風が火照った体に心地良い。
この銭湯、2008年の時点で82年の歴史があったらしい。もうすぐ、100年になりそうな勢いだ。
ここにもう一度入るためだけに、再び甲府を訪れることがあってもいいんじゃないだろうか。そんな気持ちにさせられた。100年に到達したら、その年とか、どうだろう。
甲府観光? ほとんどしてないかな。ほうとうと鳥もつ煮を食べたくらいで。身延はいろいろと歩いたんだが。
もったいない? そうかもしれない。でも、こだわりなんて、人、それぞれだし。
でも、この銭湯のためだけに、ここはもう一回、来たくなる場所だった。甲府、いいね。
それに、この銭湯、かの有名な文豪もこよなく愛した場所らしい。
それにあやかって、私も小説家に、なれるといいなぁ……なんて、あさましい欲望もあったりする。
湯上りの興奮もあって、甲府の夜道は、とてもいい気分で歩くことができたのだった。
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