第36話 ウルリヒ


 魔王城三日目、何度か「結婚は考え直してほしい」と訴えようとしたのだが、彼の漆黒の瞳に見つめられると、なぜか言葉が消えてしまう。

 今夜こそは、ラインハルトに本心を告げよう。

 そう心に決め、分厚い革張りの本を、抑揚なく淡々と読み上げるエラと向かい合って座るリーネは、背筋を伸ばし、こくこくと何度も相槌を打っていた。分厚い雲が空を覆い、日の光を感じることができない。今にも雨の降り出しそうな灰色の空を映す窓をちらりと見、リーネは心までどんより重くなるような気がした。ここに来てから、晴れているのを見たことがない。

 

 そのとき、唐突に扉を叩く音が響き、リーネはびくりと肩を揺らし、扉に顔を向ける。


(ラ、ラインハルト⁉)


 今夜こそ、自分の気持ちを伝えないといけないと心に堅く誓っていたものの、まだまだ時間があると思っていた。

 急速に心臓が早くなり、リーネは自然と胸に手を当て、衣服を掴む。

 誓いの文言を読み上げていたエラも、口を噤み、睨みつけるように扉を見る。


「クリスティーネ殿はいらっしゃいますか」


 ノックに続き、透き通るような、男性の声がした。


(あれ? ラインハルトじゃ、ない?)

 

 どうやら、ラインハルトが来たわけではないらしい。

 リーネはほっと胸を撫でおろした。

 だが、それならば誰だろう。

 ここに来てからまだ日も浅いが、リーネが把握しているのは、城主である魔王ラインハルトと、目の前のエラだけだ。

 そのエラは瞬きしてから、ぱたんと本を閉じ、黙って立ち上がると、小脇に本を挟み、すたすたと扉に歩み寄り、押し開く。


 そこには、肩までの薄い水色の髪がさらりと美しい、金色の目を持つひとりの青年が立っていた。古風な黒い騎士服に身を包んでいる。一見穏やかそうな面立ちだが、よく見れば、すっとした目元や口元が神経質そうだ。

 エラもそうだが、彼も普通の人間のように見える。

 魔王城には人間しかいないのだろうか。


「ウルリヒ様、クリスティーネ様に何か御用ですか?」


 小柄のエラは見上げるようにウルリヒという青年にやや迷惑そうな顔を向ける。


「仕事を中断させて申し訳ない。ラインハルト様から頼まれたんだ。クリスティーネ殿に、城内を案内するようにと。僕の手は今しか空いていない。時間を譲ってはもらえないだろうか? 婚儀の準備は明日で構わないか?」


 すまさそうに眉尻を下げるウルリヒに、エラは一瞬押し黙り、明らかに不服そうな空気を発するも、すぐに肩を竦め、「わかりました」と頷いた。

 それから、くるりと向き直り、リーネの元まで歩いてくると、礼儀正しく頭を下げる。


「ウルリヒ様はラインハルト様の右腕であり、参謀でもあります。私と比べ物にならないほど地位がおありなので、ああいわれてしまえば従うしかありません。それでは、またお食事の時間に参ります」


 そう言い置いて、紺地のお仕着せの裾を翻し、エラはすたすたとウルリヒの脇を通って、行ってしまった。ウルリヒには挨拶もなしで。

 ひとり残され、初対面の青年と対峙することになったリーネは、今更ながらあたふたと立ち上がり、頭を下げる。

 何の反応もないので顔を上げると、ウルリヒが無表情でこちらを見ている。

 凍てつくような色を湛えた金色の目が、地べたに這いつくばる虫でも見るように、リーネを映している。


 リーネは背筋に冷たいものを感じ、息を呑む。

 明らかに、敵意を宿した目だ。

 エラがいたときは、虫も殺せぬような柔和な表情を浮かべていたのに、今ではまるで別人だ。思わず、後ずさるが、すぐにエラの座っていた椅子にぶつかった。

 ウルリヒはわずかに眉を寄せたかと思うと、すぐさまつかつかと部屋に入ってきて、迷いなく硬直して動けないリーネの正面までやってくる。そして、何も言わず、乱暴にリーネの腕を掴んだ。


「来い」


 低い声でそれだけ言い放つと、腕を無理矢理引っ張って、歩き出した。


「あ、あのっ」


 恐怖を感じながらも、抗議の声を上げようとしたが、肩越しにキッと睨み据えられ、息を呑んで、押し黙る。

 ウルリヒは顔を戻し、殺気を放ちながらずんずんと廊下を進む。


(何だか変。本当に、ラインハルトに城内の案内を頼まれたの?)


 明らかに不穏な空気が流れている。

 けれど、無理に手を振りほどけなかった。

 ウルリヒには妙な威圧感があり、心臓が握られたような、恐怖を感じてしまう。

 壁に等間隔で備え付けられた燭台には、全て火が灯っているが、それでも薄闇に近い。


(どこに行くつもりなんだろう?)


 城内の案内であれば、既に何かしらの説明があってもおかしくはない。

 だのに、彼は一言も口を利かぬまま、ただひたすらにどこかへ向かっている。


(警戒した方がいい)


 ラインハルトの右腕だとエラは言っていたが、だからといって、全面的に信頼して良いはずがない。ここは魔王城だ。魔属性の者たちが巣食う場所。まがいなりにも聖女であった人間が、近づいて良いはずがない。

 そもそも、ラインハルトだって信用してはいけないのだ。

 彼はかつて世界を闇で支配した魔王とほぼ同一の存在。


 いくらリーネを生涯の伴侶として迎え入れようとし、丁重に扱ってくれているとはいっても、魔王には変わりない。


(なのに、私、いつの間にか、ラインハルトを信用してる……?)


 一方的に攫われ、結婚を押し付けられようとしているのにもかかわらず、いつの間にかラインハルトに警戒心を抱いていない自分がいることに気が付いた。

ふいに、リーネは初めて通るはずの薄暗い廊下に顔を巡らせた。

 引きずられるようにして小走りで進んでいるので、じっくり城内の内装を眺めている余裕などなかったのだが、なぜか妙な感覚があった。

 堅く閉ざされた厚いオーク材の扉の並ぶ廊下。板敷の床の中央に敷かれた色あせた緋色の絨毯。先端の尖ったアーチ状の窓の模様を施された硝子。埃っぽいが、落ち着いた空気を漂わせている。その全部が、どこか懐かしさを孕んでいる。


(既視感がある)


 そんなはずはないのに、自分はここを知っているという妙な感覚。


 ——君の心は、変わらない。私の愛した、クリスティーネそのものだ。


 ラインハルトの言葉が静かに脳内に響き、リーネはきゅっと目を閉じ、首を振る。


(違う、私はクリスティーネじゃない……だって、クリスティーネは——)


 蘇るのは祝祭の夜、ふらりとやって来た吟遊詩人の話だ。


 ——数々の逸話の残る彼女ですが、最期は〈魂裂きの槍〉で心臓を一突きにされました。


 ——黒魔法で磨き上げられた〈魂裂きの槍〉は、その名の通り、魂を裂くのです。だから、生まれ変わることなく、魂は消滅する。それほど、殺めた者は、彼女を憎んだのでしょうね。


 吟遊詩人の話が本当ならば、クリスティーネの魂は二度と転生することはない。

 無慈悲な槍によって、完全に消滅してしまったのだから。

 可哀そうな聖女、クリスティーネ。

 けれど——


 引かれる腕に、刺すような痛みを感じ、リーネははっと堅く閉じた瞼を上げ、自分の腕に目を向ける。ウルリヒの爪が、腕に食い込んでいるのだ。

 彼の背に目をやり、リーネは不安で押し潰されそうになるのを、歯を食い縛って、ぐっと耐える。


 彼の全身から、リーネの存在を拒絶するような、冷ややかな空気を感じるのだ。


(今は思い悩んでいる時じゃない)


 もつれそうになる足を必死で動かしながら、リーネは暗い廊下を、目的地も知らされぬまま歩き続けた。


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