第33話 ラインハルト

 言い掛けたものの、ぎょっとして言葉を飲み込んだ。

 ラインハルトが握っていたリーネの掌に、そっと口づけを落としたのだ。

 触れた唇は思いの外柔らかく、リーネはかっと赤面する。


「な、な、なっ⁉」


 反射的に、さっと手を引き抜くと、ラインハルトはちらりとリーネを上目遣いで見、香ってきそうなほど魅惑的な微笑みを浮かべた。


「君は間違いなくクリスティーネだよ。君の肌から甘く香り立つ匂いでわかる。君は私の愛する女性だ」


「に、匂い⁉」


「そうだ。君の香りがわからぬはずがない。永久とこしえに愛すると誓った、君の纏う香りを」


「ま、待ってください! きっと人違いだと思います‼ だって、私は今初めてあなたにお会いしたんですよ⁉ きっと、よく似た別人です、絶対‼」


 ラインハルトの微笑みになぜか得体の知れない恐怖を感じ、自分の言葉を肯定すべく、縦に何度も首を振る。


(ここできっぱり否定しないと、何だか危ない気がする‼)


 けれど、ラインハルトはゆるゆると首を横に振って、更に甘く微笑む。


「それはない。千年もの間、君だけを想い、眠っていたんだ。千年前の君は確かに見目麗しかった。だが、私は君の見た目ではなく、清らかに輝く魂そのものを慈しんでいたんだ。一目見ればわかる。君は、クリスティーネだ。今まで何度生まれ変わろうと、今、どんな名を持とうとも、君は私の愛した女性なんだ」


 漆黒の瞳に、様々な感情が浮かび上がり、次々に消えていく。

 最後に残ったのは、愛しい者を見つめる、一人の青年の純粋な光だった。

 その眩しいほどの光に、リーネは目がくらむような錯覚に陥り、とっさに目を逸らす。


(この人は何を仰ってるの……? 千年前? 魂?)


 思ってもみなかった言葉の羅列に、リーネは戸惑った。

 意味がわからないと、突っぱねたかった。

 だが、心の隅で、わかりすぎるくらい、ラインハルトの話の意味を理解している気がした。

 その感覚に、戸惑いを隠せない。


 すっと伸ばされた手が、リーネの頬を包み、優しく向きを変えさせる。

 嫌でも、ラインハルトと視線を絡めることになり、リーネは目を伏せる。

 すると、ラインハルトが身を乗り出し、寝台の上に膝を乗せ、迫るようにリーネの顔に自分の顔を近づける。息遣いさえ感じる距離に眩暈がする。


「私を見てくれ、クリスティーネ。私はこの時を——君に触れ、君に愛を囁く日を、ずっと夢に見て過ごして来たんだ」


 切々と語るラインハルトの声に、リーネは胸が震えた。

 こんなにも情熱的に、男性に迫られた経験などない。


「クリスティーネ……‼」


 リーネが頑なに視線を合わせないので、一瞬、傷ついたような表情を浮かべたラインハルトは、すっと感情を消し、リーネの頬から手を放した。空気が変わったのを感じ、リーネがちらりと視線を向けると、ラインハルトは冷めた顔で、リーネの肩を突き放すように押した。


 まさかの行動に、とっさに反応できず、リーネはひっくり返るように寝台の上に背中から落ちる。

 驚いて、ラインハルトを見上げようとした瞬間、とさりという音と共に、目の前が暗くなる。

 寝台がぎしっと音を立て、盛大に軋んだ。

 何が起きたかわからず、顔を動かすと、薔薇の香りが鼻についた。

 次に、布とひんやりとした糸のような何かの感触——黒い衣服と、しなやかな黒髪が、頬をくすぐる。気が付けば、体に重みを感じる。


 リーネははっとした。

 何が起きたのかわかったのだ。


 陰になって良く見えなかったが、真正面には、天蓋を背景に、ラインハルトの白い顔が浮かんでいる。

 今や、リーネはラインハルトに押し倒される形で、寝台に仰向けになっていたのだ。

 彼の腕は、リーネの顔のすぐ近くで、寝台に手を突くような形に置かれている。

 息を呑みむと、ラインハルトは寂し気に口元だけで笑みを作る。


「千年待ったんだ。もう待てない。今度こそ、君を私のものにしよう」


 ラインハルトの体が光を遮るせいで、薄暗かった室内が更に暗く見える。


(逃げなくちゃっ……!)


 彼は本気だ。

 何とかしてこの場を逃げなければ、ラインハルトはリーネを自分のものにするつもりらしい。おそらく、力づくで。

 

 怖かった。男女の機微に聡くなく、経験は愚か、知識さえ不足しているリーネでも、自分が危機的状況にあることはわかる。

 目を動かし、必死で逃げ道を探していると、ラインハルトの顔が迫って来るのを感じた。


 絶体絶命! とぎゅっと目を瞑ったそのとき、とっさに妙案が浮かび、ぱちりと目を開いた。そして、すぐ目の前にあるラインハルトと目を合わせ、


「わ、私⁉ 結婚相手としか、く、口づけもしないって決めてるんです‼」


 わずかに上擦った調子ながらも、なんとか口にする。

 ぴたりとラインハルトは止まり、目を見開いた。

 そして、さっと体を起こすと、目を細め、口元に手を当てた。それから、リーネに背を向けるようにして、床に足を下ろし、優雅に足を組むと、黙り込んでしまう。

 これ幸いと、リーネも飛び上がり、寝台の端に移動し、身を小さくして、突然離れたラインハルトの背を警戒するように窺う。見れば、小刻みに震えている。


「あの——」


 沈黙に耐え切れず、リーネが口火を切ると、ラインハルトはびくりと肩を揺らした。


「すまない。君があまりにも、昔と変わらないから……何だかこそばゆくて」


 どこか笑いを堪えるような、小さな声が返ってきて、リーネは目を丸くした。

 先程までの怪しげな雰囲気は消失し、何となく気安い空気さえ生まれている。

 リーネは肩の力を抜いて、すっと背を伸ばし、少しだけ首を傾け、背を向けるラインハルトの表情を見ようとするが、上手くいかない。


(笑ってる……?)


 何がおかしかったのかわからないが、もう危機は去ったとみてよさそうだ。

 リーネはほっと息を吐き、背を向け続けるラインハルトを見た。

 状況を確認するなら今かもしれない。居住まいを正し、リーネは口を開く。


「あの、状況が全く呑み込めてないんです。教えてもらいませんか? ここがどこなのか、私は何で連れて来られたのか——そして、あなたが何者なのか」


 わずかな燭台の炎で照らされた室内は、薄暗く隅々まで見通せない。

 だが、全部見えたところで、ここがどこであるか見当もつかないだろう。

 それは、分厚いカーテンを開けたところで同じだという気がした。

 今は夜だろうが、昼だったとして、見えた景色でリーネに判断ができるとは思えなかった。

 

 何より不可解なのは、リーネがいきなり連れ去られたその理由だ。

 リーネを捕らえようとするのは、聖女の園を管理する教会くらいなもので、それ以外には思いつかない。けれど、ここは聖女の園とは似てもにつかない。聖域特有の澄んだ空気がないのだ。むしろここには、闇の気配がある。黒を基調とした部屋を見ても、禍々しさを感じるが、それ以上に、漂う空気がじっとりとして息苦しい感じすらある。


 人攫いということも考えられるが、わざわざ領主の城に忍び込んでくるような者はいないだろう。


 でも、最大の謎は目の前の彼だった。

 千年も昔に、勇者たちによって異次元に追いやられた魔王ラインハルトが、平然と千年後の世界に現れるはずがない。

 

 確かに、復活の魔王が現れることは律の記憶からも知っている。

 けれど、どうやって復活したのかいまいち覚えていないのだ。そもそも語られていたかも怪しい。だが、直感が、彼はラインハルトだと告げている。となれば、どういう説明が考えられるだろう?

 

 ラインハルトは体の向きを変え、リーネに向かい合うように座り直す。

 さらりとした長髪が肩から落ちる。


「朝まで語り明かしたいくらいなのだが、そろそろ暇を告げなくてはならない。こう見えて、私も忙しい身だ。だが、君の不安を取り除いておかねば」


 目を細め、優し気に微笑むと、ラインハルトは寝台を下り、すっと表情を改めた。


「ここは魔王城だ。千年前からここに在り、千年後もここに在り続ける、永久の場所だ。そして、クリスティーネ、君をここに招いたのはこの私だ。かつてと同じように、君とここで暮らしたかった。だが、説明したところで、君がすぐに記憶を取り戻すとは思えなかった。だから、攫うような形になってしまった。そこはすまなく思う。そして、私は——」


 そのとき、ノックの音が響き、リーネはびくりと体を揺らした。

 ラインハルトも言葉を止め、扉の方に目を向け、秀麗な眉をわずかに寄せると、扉を見、高圧的な声音で言い放つ。


「何だ」


「お時間です」


 少女のような声がした。

 ラインハルトは難儀そうに息をつくと、扉の方からリーネに目を向け、どこか残念そうなに眉尻を下げ、それでも口元に笑みを湛えて見せる。


「すまない、行かねばならぬようだ。残念だが、失礼する」


 踵を返し、黒いマントを翻す。

 すらりと背の高い姿に、リーネは息を呑んだ。

 薄闇の中、全身黒色で固めたラインハルトの、白く浮かび上がる顔ばかりに目が行っていたが、少し離れて、全身の姿を見たのははじめてで、そのすっとした美しい立ち姿に、思わず見とれてしまう。

 

 ラインハルトがリーネの質問に全て答え終わる前に、侍女と思しき人物の登場で話が中断されたので、彼が何者であるかという問いは宙ぶらりんのままだ。

 だが、千年前という言葉が出た以上、やはり千年前にこの世を支配した魔王と思って差し支えないだろう。


(魔王……この人が、魔王)


 どうみても人間の美青年にしか見えないが、やはり魔王なのだ。

 ラインハルトの姿から目を離せずにいると、扉に手を掛けた彼が肩越しに振り返った。

 そして、魅惑的な微笑みを浮かべる。


「婚儀までそう時間がない。衣装も早急に作らせよう。あとで、人をやる。君の花嫁姿が楽しみだ」


 そう言い置いて、ラインハルトは重い木製の扉を開け、出て行った。

 残されたリーネは、目を瞬かせる。


(今、何て?)


 言葉の意味を全く呑み込めないまま、リーネは寝台の上で呆けたようにただ座り込んでいた。

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