第32話 復活の魔王
胸に突くような痛みを感じ、リーネはばちりと目を開けた。
ちりちりと燃える橙色の灯りが眼の端に映るが、あたりは薄闇といってもいい。
どこだろうと、目を動かせば、どうやら天井のある室内らしい。
柔らかい何かに仰向けになっていたようで、リーネは手をついて上体を起こす。そして改めて、周囲に顔を巡らせた。
リーネの横たわっていた寝台は部屋の中央にあった。
天蓋からは、薄い黒色の布が垂れ、左右を優しく覆っている。
重く閉ざした黒いカーテンの隙間からは光りすら漏れていない。
壁は重苦しい灰色をしていて、等間隔で紫の縦線が入っている。よく見れば、その紫は薔薇の花と、茨のようだった。毒々しい色合いと茨に、リーネは無意識に体を掻き抱く。
天井には、木製のシャンデリアが吊るされ、火の気のない真新しい蝋燭が並んでいた。
唯一の光源は、壁に取り付けられた三股の燭台だけのようだった。
薄暗さに慣れて来たリーネは、隅に置かれた年代物の長持ちや、鏡台、書き物机などを眺め、妙な気持ちになった。
「ここは一体……」
思わず口を開くと、ふとすぐ傍で、息を呑むような気配を感じた。
リーネはびくりとして、声のした側に顔を向けようとするが、思い留まり、耳を澄ます。
もし幽霊だったら、見たことを後悔するに違いない。
「目覚めたか?」
伸びやかな低音の声が真横から聞こえたとたん、リーネは心臓が止まるくらい驚き、息をつめた。
薄い布越しに、誰かがこちらを窺っているのが、見なくてもわかる。
声からして、年若い青年に違いない。聞き覚えのない声だと思った瞬間、先ほど見ていた夢を思い出す。またクリスティーネの夢だった。
そして今度は、蒼き勇者でなく、魔王ラインハルトと共にいた。腰まであるしなやかな黒髪に、切れ長な漆黒の瞳。冷たい美貌の青年。夢の中で、クリスティーネは一度もラインハルトの名を呼ばなかったが、彼こそが千年前に闇で世界を支配した魔王その人だとわかった。
「まだ、意識がはっきりしないのか?」
気遣うような声音にはっきりと確信する。
夢で見たラインハルトの声そのものだ。
リーネはおそるおそる声の主へと顔を向ける。
黒い布越しに、椅子か何かに腰を下ろした長髪の青年の姿があった。
顔は良く見えないが、影を見る限り、夢で見た魔王によく似ている。
(これはまだ夢の中なのかな?)
リーネはほっと息をつき、いつの間にか入っていた肩の力を抜く。
夢であれば、案ずる必要はない。また寝てしまえば良いのだ。
リーネはくつろいだ気持ちで、また横になる。
すると、布一枚隔てた先にいる青年が焦ったように立ち上がり、手を持ち上げ、布を払うようにして、顔をのぞかせた。
(あ、やっぱり、ラインハルトの顔だ)
蒼き勇者の時の夢もそうだったが、不思議な夢だ。今まで魔王ラインハルトの姿など、まともに想像もしたこともなかったというのに、現実に目の前にあるような気がしてしまう。
気付けば、心配そうにこちらを見つめていた彼の頬に、そっと手を伸ばし、包み込むように触れていた。
ひんやりとした肌は、どこか氷のようだった。
夢だというのに、指先に伝わる冷たさはまるで本物のようだ。
「クリスティーネ……」
ラインハルトは少し驚いたように軽く目を見張ると、すぐに目を細め、自分の手をリーネの手に重ねた。
なぜか、先程よりも感覚が研ぎ澄まされているかのようで、触れる素肌の感触も、彼の息遣いも、実際に目の当たりにしているかのような錯覚に陥る。
それに、夢ではどこか危うい未成熟さのようなものを感じたラインハルトだったが、目の前の彼はずいぶん大人びて見える。否、これこそが彼の容貌と釣り合いの取れた成熟具合なのかもしれないが。
(何だか、さっきまでの夢と違う……?)
愛おし気な漆黒の瞳を向けられると、無性に落ち着かなくなってきて、手を引っ込めようとしたのだが、彼の手がそれを留めるように、リーネの手を自分の頬に押し当てるように力を込める。
「あの、手を……」
だんだんと羞恥心が湧いて来て、リーネはついに口を開く。
「放してもらえませんか?」
言って、リーネははっと息を呑んだ。
耳に届いた声は、明らかに自分のものだった。
夢で見たクリスティーネの凛とした声とは全く違う。
それに、思い返せば、夢の中でクリスティーネが言葉を発するとき、リーネはただそれを聞いているだけだった。自らの意志を持って、口を開いていたのではない。
でも、今は——
(私が、私として話してる⁉ でも、ラインハルトは、クリスティーネって呼んでいたはず⁉)
リーネは自由になる方の手で、自分の掌を観察し、今度は腕、胸、腹といった具合に点検していく。最後に、リボンの解けた、髪に触れ、毛先を目の前にかざし、その色を確認した。
髪を摘まんだまま、リーネは驚愕した。
「まさか……」
見慣れた掌の形も、着ている緑色のドレスも、髪の長さや色も、全てリーネのものだ。ドレスに関しては、マルクからの借りものだが、祝祭の日に身に着けていたもの。
「そうだ、私、エーヴァルトさんを……」
祝祭の日、エーヴァルトと仲違いして、それから——
別れ際に見たエーヴァルトの背中を思い出し、リーネは目を伏せる。
ずきりと胸の奥が痛んだ。
「エーヴァルト?」
怪訝そうな声が聞こえ、顔を上げると、ラインハルトが形の良い眉を寄せ、切れ長の目を細めている。
「それは、誰だ?」
明らかに不機嫌な声音に、リーネはたじろいだ。
エーヴァルトの名で、どうして彼の機嫌が悪くなるのかわからないし、それ以上に、目の前に千年前に異次元世界へ追いやられたはずの魔王ラインハルトがいるのか理解ができない。
(夢! そう、新しい夢なんだわ)
答えないリーネに、ラインハルトはますます眉間の皺を険しくしていき、リーネの手をぎゅっと握り締める。わずかに痛みすら感じるほどに。
(いたい……痛い? んん⁉ ゆ、夢じゃないっ……⁉)
ラインハルトに捕まれた手が痛みを感じ、リーネは戸惑った。
「エーヴァルトとは?」
静かな怒りを滲ませるので、体中から冷や汗が噴き出て、リーネは息を呑む。
答えない限り、彼の怒りは収まりそうにない。
リーネは細く息を吐き出してから、まっすぐ綺麗な顔で凄むラインハルトを見つめた。
正直、置かれた状況が全く呑み込めないが、とりあえず、ひとつひとつ対処していこうと心に決める。
「エーヴァルトさんというのは、私たち姉妹を助けてくれた命の恩人です」
しんと静まり返る室内で、壁の燭台の炎がゆらりと揺れた。
痛いほどの視線を受けながら、リーネは目を逸らさないようにする。
ここで視線を外せば、信じてもらえない気がするのだ。何となくだが。
ややして、ラインハルトはすっと表情を改めた。眉間の皺が消え、怒りが薄まる。
「君の恋人でないと聞いて安心した。仮にそういった仲だとすれば、今からその者の元に行き、息の根を止めなくてはならない。命の恩人といっても、街で偶然擦れ違う、顔も名も知らない、赤の他人と同程度と考えて良いか?」
微笑みながら、物騒なことを言うラインハルトに、リーネは驚愕して目を見張った。
(い、息の根を……⁉)
どうして、リーネの恋人だった場合、命を奪わなくてはならないのか。
目の前にラインハルトという人物がいること自体、上手く呑み込めてないのに、彼の発言は更に意味がわからない。それに、彼はリーネをクリスティーネと呼んでいなかったか。
「あの、もしかして人違いをされていませんか? 私、クリスティーネという名前じゃないんですっ。リーネといって——」
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