第42話 混乱

 リーネが口を開きかけた瞬間だった。

 突然、大きな音をさせて扉が開いた。

 鈍い光りと、耳障りにも感じるざわめきが、一気に流れ込んでくる。

 自然とそちらに目を向けると、たくさんの影がなだれ込むように教会に入ってきた。

 

 先頭にはウルリヒがおり、その後に続くように人のような形のものや、明らかに異形の姿の者たちが近づいて来る。そして、並んだ木製の長椅子を埋めるように、左右に裂けていく。どうやら参列者のようだ。今まで礼拝堂内を満たしていた薔薇の香りに、錆びついた金属、狼煙をあげたときの煙、獣などのにおいが交じり合う。


 身の毛のよだつような光景に、震え上がる。

 魔王城に来てから七日間、一度もこのような者たちの姿を目にしていない。

 一体、どこに潜んでいたというのだろう。

 ラインハルトは、敢えて隠していたのだろうか。リーネが怖がることをわかっていて。


「早すぎる」


 立ち上がったラインハルトから、唸るような声が落ちてきた。

 おそらく、参列者たちは予定していたより早く入って来てしまったのだろう。

 がやがやとする参列者たちがどうにか席に着くと、最後尾にいたエラが何か大きなものを抱えているのが見えた。エラはすたすたと歩いて来て、参列者を壁際で見守っていたウルリヒに、布でくるまれたそれを渡した。


「仕方がない。クリスティーネ、婚姻の儀の前に、君の望むものを贈りたい。君には刺激が強いかもしれない。だから、怖ければ瞼を閉じ、耳を塞いでいるといい」


 優しい漆黒の瞳にいたわりの色が見え、わずかに小首を傾げたあと、リーネははっとした。

 ラインハルトの言わんとすることがわかったのだ。


「蒼きリントヴルムの涙を……?」


 リーネは婚儀の後でいいと言った。だが、彼はその前に贈りたいのだという。

 復活の魔王の成長を助けていた宝石。彼の体の中で、血肉同然に同化した宝。

 食い入るように見つめると、ラインハルトは軽く頷く。


「婚儀には相応しくないかもしれないが、少々血を流す。長き間、私の体内にあったものだ。切り離すには手間がかかる。ウルリヒとエラにその役目を頼んだ。今から行う。君は、端に寄っているといい」

 

 リーネを安心させるように、握る手に力を込める。


「血が……?」


 予め予測をつけていたのに、いざ真実を告げられると、怖気づいてしまう。

 リーネは血の気の失せた顔で、ゆっくりとウルリヒの方を見た。

 ウルリヒは布に包まれた何かを抱え、静かに歩いてくる。その後ろからエラが無表情でついてくる。


「さあ、壁際に」

 

 ラインハルトは固まるリーネの腰に手を回し、紳士然とした仕草で、近くの壁際にリーネを連れていく。


「待っていてくれ、クリスティーネ」


 そう言い置くと、背を向け、祭壇まで戻っていく。

 とっさに声を掛けようとして、けれど言葉が出なかった。

 とても嫌な予感がした。

 ウルリヒが抱えているものは、おそらく蒼きリントヴルムの涙を取り出すための道具だ。


(まさか)

 

 そこは礼拝堂にあるまじきほど煩かった。点々と置かれた蝋燭が、参列者のざわめきで揺れているのではないかというほど。けれど、リーネの耳には届かない。音が消えたのだ。

 

 無音の世界で、ラインハルトとウルリヒが何やら言葉を交わす姿だけが浮かび上がっている。エラがどこからともなく大理石の台座を運んできて、その上にラインハルトが仰向けに横たわる。台座の傍らで、ウルリヒが包みを勢いよく捨て去った。中から現れたのは、銀色のレイピアだ。柄には、禍々しき蛇がとぐろを巻いたような装飾がある。

 

 その鋭さに息を呑んだ。

 体が小刻みに震え、足の感覚がなくなっていく。

 ガクンと目線が落ちる。

 足から力が抜け、膝から崩れ落ちたのだ。


(どうしようっ……!)


 恐怖で歯の根が合わない。震える手で口元を覆い隠す。

 酷い眩暈を感じ、吐き気がした。胸の奥に鈍く、重い何かが勢いよく渦巻いている。


(私、何てことをっ)


 今になって思い知らされた。

 自分が望んだものが何であったのか。

 愛溢れる眼差しを注ぎ、リーネを温かく包み込もうとしてくれるラインハルトに、何を差し出せと言ったのか。

 

 涙が滲み、視界がぶれる。

 怖かったら、目を閉じ、耳を塞いでいていいと言ってくれた。そんな気遣いのできる人に——自分は何て残酷な望みを口にしたのか。

 

 きっと死にはしないだろう。けれど、そんなことは問題ではない。

 リーネはラインハルトに進んで傷ついてほしいと言ったのだ。


(何て、酷いことを)


 そんなつもりはなかったでは済まされない。


(止めなきゃ……今からでも、止めなきゃ)


 そう思い、足を踏み出そうとする。

 だが、床にぴたりとくっついた足はピクリとも動いてくれない。

 涙が溢れ、熱い雫がぼろぼろと頬を伝う。

 ウルリヒが台座の脇に立ち、ラインハルトを見下ろす。その手にはレイピアがある。ウルリヒは薄い唇を忙しなく動かし、呪文のような物を口にしているようだ。すると徐々に、紡がれた言葉は黒い靄となり、横たわるラインハルトの体を覆って行く。

 靄が完全にラインハルトの姿を覆い隠すと、ウルリヒは両手で握ったレイピアを頭上高く引き上げた。


 鋭利な刃の先から目を逸らすことができない。

 刃が振り下ろされると息を止めたとき、ウルリヒが顔を動かし、リーネの方を向いた。目が合った瞬間、カッと見開かれる。それは異常に血走った魔物の目だった。


 目を見張ったのも束の間、視界を影が覆った。突然目に映る景色が変わり、機械的に視線を巡らせば、周囲を黒い影が取り巻いている。顔を顰めてしまうほどの死臭に似た臭いと、冷気を間近に感じる。


「……!」


 そこには薄く伸ばされたような人型の闇があった。

 闇がゆらりと揺れながら、リーネを取り囲む。

 彼らは横揺れを繰り返しながら、徐々に輪を縮めてくる。

 声を上げたくても、恐怖で喉がひきつった。

 鼻を突く死臭は、彼らの吐く息のようだ。だが、目も鼻も口もその闇には浮かんでいない。

 

 ぞわりと肌を粟立たせるのは、彼らの足元から這い出してくる冷気。

 およそこの世のものとは思われない、得体の知れない何か——は、ただ震えて蹲るリーネに近づいて来る。


(だ、誰か——)


 何が起こっているのかわからなかった。

 すぐ目の前に、影がいた。

 にゅうと伸ばされた手は揺らめきながら、リーネの首に絡み付こうとする。


(そうか、私を殺そうとしてるんだ)


 ウルリヒの血走った瞳が過る。

 そう、きっと彼は諦めていなかったのだろう。


クリスティーネの——リーネの命を奪うことを。

 

 ラインハルトは台座の上、先程見た靄の中だ。

 リーネの置かれた状況を知らないに違いない。


「クリスティーネ様‼」


 そのとき、叫ぶような声が近くから上がった。

 一気に音が戻って来る。参列者たちのざわめき。影が動くたび聞こえる、さわさわという音。

 遠のきかけていた意識がとたんに呼び戻される。


「エラ!」


影の間からエラの顔が見えた。

いつも冷静なエラが、焦ったような表情を浮かべ、影を懸命にかき分けるようにして、リーネに手を伸ばす。


「手を掴んでっ‼」


「エラ!」


「早くっ! 喰われたいんですかっ⁉」


 弾かれたようにリーネは、伸ばされた小さな手に自分の手を伸ばす。

 ふたりの腕に闇が迫り、氷のように冷たい冷気が身体の芯を凍えさせる。

 指先が触れると思われた瞬間。

 突然、エラの腕が消えた。

 そして、どんっという大きな音が響く。

 何が起きたかわからず、伸ばした腕をそのままに、呆然としていると、怒気を含む声が聞こえた。


「邪魔するな」


 底冷えするようなウルリヒの声。


「エ、ラ……?」


 エラに何かが起きた。

 影たちに阻まれ何も見えないが、エラによくないことが起きたのだ。

 心臓が握りつぶされるような恐怖を感じる。


「さあ、今度こそ消えるといい。彼らは魂を食らう者だ。粉々に嚙み砕け、再生などまず不可能」


 嘲笑うかのような声が響くと、参列者たちが一際大きな声を上げた。

 それは歓声のようだった。心の中に絶望が生まれ、視界を黒く塗りつぶしていく。

 魔王城——そこは魔の巣窟。

 そのことをリーネは初めて思い知らされた。

 だが、今更それを理解したところで何になるだろう。

 全てが暗闇に飲まれそうになったとき——

 突如、頭上で閃光が走り、あまりの眩しさに思わず目を瞑る。


「リーネ‼」


 空気を裂くような、大きな声が上がった。

 嘘だと思った。

 ここに、彼がいるはずがない。

 リーネは目を見張り、ゆっくりと顔を声の主に向ける。

 いつの間にか視界が開けていた。

 人型の闇は全て消えている。

 開け放たれた扉に、いくつかの人影が見えた。


「何者だ⁉」


 驚きに見開かれたウルリヒの目は、突然の闖入者たちに向けられている。


「お前に名乗る名など持ち合わせていない」


 不遜な態度で言いながら、一つの影がずんずんと近づいて来る。

 その声にも、その影にも覚えがあった。

 きゅっと胸が疼き、リーネは自然と胸の前で強く手を握り締める。

 じわりと視界が滲んだ。

 蝋燭の炎で浮かび上がるのは、蒼き勇者の末裔——眉間に深い皺を刻んだ、険しい表情を張り付けたエーヴァルトだった。

 

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