第41話 婚姻の儀
エラに連れられて足を踏み入れたのは、魔王城にそぐわない石造りの教会だった。
「クリスティーネ、愛する人」
心を震わすような、優しい声が響く。
リーネは立ち竦み、呆然とその人を見つめた。
礼拝堂の祭壇前で、黒地に金の刺繍の入った正装で身を包んだラインハルトが、両手を広げている。
いつも束ねることもしない黒髪を、ゆるく後ろで結んでいるようだ。
薔薇の香りが漂い、リーネはわずかに目を細める。
ここにも多量の薔薇が飾られているらしい。
視線を落とせば、板張りの床の上に、薔薇の花びらとおぼしきものが無数に散らされている。彼の隣へと続く道しるべのように。
「魔王様から、しばらくふたりきりにしてほしいと指示を受けております。準備もありますので、一旦さがります」
耳打ちするようにそう言い置いて、付添人だったエラはさっさと扉の外に滑り出た。
「クリスティーネ」
呼びかけられ、息を呑む。
リーネは、不安そうに佇むラインハルトを見やってから、少し目を伏せ、小さく息を吐く。そして、毅然と顔を上げ、彼の元へと歩いて行く。
背筋を伸ばし、迷いなど微塵も感じさせない足取りで。
柔らかい花びらを踏みしめながら、一歩一歩進んでいく。
次第に、ラインハルトの表情が見えてきた。
愛する者に向ける温かな眼差しで、リーネが近づいて来るのを見守っている。
リーネはスカートの前で合わせていた手を、ぎゅっと握り締めた。
(これでいい)
横目に映る蝋燭の炎が、進んでいくのに合わせ、ゆらりと揺れる。
(ようやく、エーヴァルトさんに報いることができるんだもの)
リーネのずるさが引き起こした事態を収拾できると思えば、婚姻など大した問題ではない。自分の愚かな選択が、彼を傷つけた。だから、何が何でも挽回したかった。
また、前のように話をしたい。
普通に話して、普通に笑いたい。
(普通に?)
普通とは何だろう。出会いからして、普通とは程遠い。
(私、どうしたかったんだろう?)
口数も少なく、にこりともしない人だった。
リーネが話しかければ、迷惑そうに眉根を寄せることもしばしばだった。
綺麗な顔をしているのに、目つきが悪く、人を寄せ付けないところがあった。
そんなエーヴァルトと、自分はどうなりたかったのだろう。
(もっと、仲良くなりたかった)
仲良くなって、それから一緒に蒼きリントヴルムの涙を手に入れ、共に喜びを分かち合いたかった。あの冷たい顔に、微笑みが浮かぶのを見てみたかった。
この婚姻の儀が終われば、彼に念願の宝を渡すことができる。
そうしたら、ふたりの間に生まれた溝はたちまち消え去り、今度こそ本当の友情を築くことができる。
そう思ったところで、リーネはふと思考を止めた。
(そんなわけない……馬鹿ね、私)
じわじわと焦りに似た感情が、心に広がっていく。片手は自然と刻印のある心臓の上に置かれた。
魔王ラインハルトの伴侶になれば、約束通り、蒼きリントヴルムは手に入るだろう。
上手くして、それをエーヴァルトに渡せたとして、リーネは彼と友情を育む機会など与えられないのだ。リーネは魔王の妻であり、蒼き勇者の末裔であるエーヴァルトとは相容れない存在となる。
頭がふらふらしたが、歩みは止まらなかった。
そして、気づけば、ラインハルトの一歩手前まで来ていた。
祭壇近くに飾られた黒薔薇の香りが、強烈に香って来る。眩暈を感じ、リーネは足を止めた。
ラインハルトが穏やかな表情で、リーネに手を差し出してくる。
婚姻の儀の前にふたりきりになりたいというラインハルトの希望など、エラに言われるまで知らなかった。婚儀の日取りも、参列者も、リーネの着るドレスさえも、全てはラインハルトの采配だ。
リーネに選択権などない。だって、この婚儀は、取引なのだから。
ラインハルトは、ウルリヒの命の代価だと思っているだろう。
けれど、リーネからすれば、蒼きリントヴルムの涙の代価だ。
(今更だよ、リーネ。もう、後戻りはできないんだから。私は、蒼きリントヴルムの涙をエーヴァルトさんに渡すことだけを考えていればいい)
ぐるぐると巡らしていた思考を断ち切り、リーネはラインハルトの手に自分の手を重ねた。ひんやりした手が、リーネの手を優しく包み込む。そして、引き寄せるようにして、自分の隣に招いた。
「この日をどんなに待ち望んだか。やっと君を私の物にできる」
ラインハルトは表情を改め、わざとらしくコホンと咳払いした。
それから、おもむろに膝をつき、リーネを見上げる。
その手は、リーネの手を放すまいとするように、握ったままだ。
「病めるときも、健やかなるときも、君を愛すると誓う。それを伝えたかった」
魅入られるほど甘い色を浮かべた、漆黒の瞳が、リーネを包むように見つめている。
だが、リーネの心は乾いた砂漠のようだった。
どんなに水を流し込まれても、さっと干上がり、浸透してくれない。
「クリスティーネ?」
黙りこくるリーネに、ラインハルトは不安そうに眉を寄せ、その心を覗き込もうとするかのように、リーネの瞳を見つめてくる。
「ごめんなさい。緊張してしまって」
不審に思われてはまずいと、とっさに言い訳する。
エーヴァルトのことを考えたせいで、心が乱れてしまったようだ。
「私も緊張しているよ。だが、正式な儀式の前に、君の気持ちを聞きたいと思った」
ラインハルトはほっと息を吐くと、微笑んだ。
「私の、気持ち?」
どきりとして、リーネは目を逸らす。
(今、何を考えた?)
正直な気持ちを言えと言われたわけではないのに、リーネは先程まで考えていたことを頭に思い浮かべたのだ。こんなものは、ラインハルトの望む返答ではない。
ぎゅっと目を瞑り、雑念を追い払う。再び目を開けて、リーネは静かに待っているラインハルトに視線を向ける。
「私——」
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