第40話 リーネの心

 重たいスカートを引きずりながら、窓辺に近づくと、ぱらつく雨が見えた。

 先程までいつものように曇天だったが、とうとう雨が降って来たらしい。

 ここに来てから、いつ泣き出してもおかしくない空模様が続いていたが、結局降ることはなかった。

 だが、門出であるはずの今日、ついに空は泣いた。


 化粧を施した目を伏せ、リーネは俯く。

 目に入るのは、繊細なレースをふんだんにあしらった漆黒のドレスだ。

 星のない夜を思わせる、闇夜のドレス。

 詰まった襟は禁欲的にも見えるが、肩から胸元、そして腕には、繊細な黒のレースが使われ、素肌が透けて見えるため、煽情的だ。スカートの裾は引きずるほど長く、惜しげもなく使用された布で、優美なひだが幾重にも波打つ。スカートにもレースがあしらわれ、薔薇の透かし模様が入っている。

 これが、リーネの花嫁衣装だ。


 きつく締め上げられた胸が苦しい。

 細く息を吐き出し、リーネは窓に背を向け、化粧台の前の椅子に、ドレスを着崩さないように気を付けて腰を下ろす。

 薄ぼけた鏡に映るのは、どこか浮かない顔をした少女。

 金色の髪は、エラが綺麗に洗い、梳いてくれた為、見違えるほど艶やかに見える。

 それを、丁寧に巻き髪にされたため、いつもとはまるで別人だ。

 

 頭には、黒薔薇が飾られ、甘く香り立つ。

 体も、ぴかぴかに磨き上げられ、薔薇の浮かぶ湯船に浸かった後に、薔薇の香水を塗られた為、ふとした瞬間に強く香り立ち、眩暈がするほどだ。


「結婚……」

 

 ふと落とした言葉に、リーネは眉根を寄せ、小さく息を吐く。


 魔王城に来てから七日目の今日、リーネは復活の魔王ラインハルトの妻となるため、婚姻の儀に臨む。

 正直、実感がわかない。そもそも、誰かと婚姻を結ぶ自分というものを、今までまともに想像したことがないのだ。両親が亡くなってから、優しい養父母の元で不自由なく育てられたが、それも七歳まで。そこから生涯独身を抜く先読みの聖女となった。

 

 よく覚えていないが、たぶん七歳までは、お伽話の王子様とお姫様のように、いつか自分も素敵な結婚をしたいと淡く夢見たことがあっただろう。けれど、子供がした「結婚って素敵」というふわふわした想像に過ぎず、強い願望ではないため、具体性もなかった。


 その後暮らしてきた聖女の園では、恋愛や結婚などという言葉は、極力脳内から排除して過ごしてきた。どんなに夢見ても、どんなに欲しても手に入らないのだ。望むだけ無駄だ。理性的に、そういったものに憧れる感情を排除して生きてきた。

 

 そうしているうちに、自分の望みさえも見えなくなった。

 結婚や恋愛どころではない。将来への期待や願望がことごとく消えたのだ。

 最低限の衣食住さえ整っていればいい。姉がいてくれればいい。

 ただ、毎日を生きていく。それでいいと思っていた。

 自然、リーネは膝の上で重ねていた手に力を入れる。


 薔薇の香りが鼻につき、軽く頭痛がした。

 エラがのどを潤すのにと用意したのは、薔薇水だ。

 部屋にも、薔薇が黒い花瓶に活けられている。これほどの薔薇をどこで手に入れたのだろう。


 しばらく、目を瞑っていると、扉を叩く音が響いた。

 顔を上げると、「お時間です」というエラの声。

 リーネは毅然として立ち上がり、後ろに流していた黒いベールをかぶる。


 そして、扉に向かって歩き出し、ふと立ち止まる。

 ザーッという音が耳に届く。

 振り返れば、曇った窓ガラスの向こうの雨脚が強くなっていた。

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