第39話 愛の証
優しい甘い香りが足元から立ち上る。
神聖なる白き花ファーリエの一面咲き誇る、小さな箱庭。
それはまるで嘘のような風景だった。
「ここは、クリスティーネが作った庭だ」
隣に立つラインハルトが、優しく微笑んだ。
乾いた土色の大地に、石塀に囲まれた不自然なほど真四角の空間があった。
かつては輝くほど美しかったであろう石塀は、ところどころ亀裂が入り、薄汚れ、白色とは言い難い。
ラインハルトに手を取られ、連れて来られたのは、そんな古びた壁に囲まれた、小さな庭だった。
「君に贈り物をしたい。何が欲しい?」
唐突に問われ、ラインハルトに目を向ける。
軽く顔を傾け、ラインハルトは穏やかな微笑みを浮かべていた。
「贈り物、ですか?」
「そうだ。君が婚姻を承諾してくれた記念に」
笑みを深くするラインハルトに、リーネは目を伏せる。
ウルリヒの命と引き換えに、婚姻を承諾する形になったのは、つい昨日のことだ。
はっきり断ろうと決意していた矢先に。
本来なら、命を狙われていたリーネが、その相手の命を奪わないでくれなどと懇願する必要はなかった。なかったはずだ。傍から見れば、全くもっておかしな状況だ。
けれど、現実、リーネはウルリヒの命と引き換えに、結婚の承諾を持ち出し、ラインハルトはそれを受け入れた。取引は成立してしまっている。しかも、リーネから持ち掛けたようなものだ。
(取引……)
脳裏に、エーヴァルトと血の誓約を交した日のことが蘇り、ずきりと胸が疼く。
エーヴァルトにも取引を持ち掛けたのはリーネだった。
無意識に胸に手を当てる。誓約後に確認したところ、ちょうど心臓のあたりに黒い刻印を見つけた。古代語らしき文字で渦を描いたような模様だ。
——エーヴァルトとの唯一の繋がり。
「クリスティーネ?」
名を呼ばれ、リーネは顔を上げる。
本来は自分の名ではないそれに、すっかり慣れてしまった。
漆黒の瞳が、不思議そうに見つめている。
「何でもいいんですか?」
「ああ。極力、君の要望に沿う」
一瞬躊躇ったのち、リーネはまっすぐラインハルトの目を見た。
自然と、膝に当てた掌に力が入る。
「蒼きリントヴルムの涙」
かすかな風が吹き、白い花を揺らす。
甘い香りがふわりと香った。
ラインハルトはすっと表情を消し、曲げていた腰をまっすぐに伸ばす。
「なぜ?」
吐息と共に
「ダメですか?」
スカートの生地を掴みながら、リーネはまっすぐラインハルトの瞳を見つめた。
「いいや。ただ、理由を知りたかった」
ゆるゆると首を振り、ラインハルトは目を伏せる。黒い睫毛が切なげに震えた。その様子が、ひどく胸を打つ。
「それと深く結びつく者の名を、私は知っている。蒼き勇者——彼女を愛した男だ」
クリスティーネを愛したもう一人の男。
その蒼き勇者の末裔である、旅の剣士エーヴァルト。
ラインハルトは、蒼き勇者の想いを知っていたのだ。だが、エーヴァルトのことはどうだろう。彼が、一族の家宝であった蒼きリントヴルムの涙を取り戻そうとしていることも知っているのだろうか。
「私の中に、全てのリントヴルムの涙がある。これらの持つ力が、成長を助けていた。私はまだ目覚めたばかりで、この力が必要だ。だが——君が欲するなら、今すぐにでも差し出そう」
ラインハルトが胸に手を当てるので、リーネは慌てて首を振り、とっさに自分の手をラインハルトのそれと重ねる。
今にも肌に爪を立て、体内から抉り出そうとするのではないかと心配になったのだ。
「今じゃなくていいです! 婚姻の儀のあとで‼」
そして、深く息を吐き、頭を下げた。
「それと、そんな大事なものを、ありがとうございます!」
体内にあって、成長を助けているとすれば、それは血肉と同じだ。
それを欲しいなどと言ってしまう自分がおぞましい。
けれど、エーヴァルトに報いたかった。
自分たちを聖女の園という檻から連れ出してくれた恩人に。
そうしなければ、永遠に後悔する羽目になる。
ずっとそんな思いを抱えたまま、生きていくのはつらい。
ずんと心が重くなった時、ふいに頭に手が乗せられた。
その手が滑るようにリーネの頬に当てられ、ゆっくりと顔を上向かせる。
柔らかい表情を浮かべたラインハルトが口を開いた。
「いや、君ほど大切なものはない。この身さえも、君の存在に比べれば、取るに足らないものだ。だが、君と共に生きていきたいのだから、この身を手放すわけにはいかない。この腕がなければ、君を抱き締めることができない。指がなければ、涙を拭えない。目がなければ、愛しい君の姿を見ることができない」
ラインハルトはリーネの腰に両腕を回し、ふんわりと抱き締めた。
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