第38話 新たなる取引
「お前だったのか……ウルリヒっ‼」
背中を伝わって来る、怒気を孕んだ震える声音。
リーネは目を開けた。
眼前には、目を剥く魔物姿のウルリヒ。
そして、リーネをその胸に抱き込むようにしながら、剣で三股の槍を受け止めているのは、復活の魔王ラインハルトだ。
いつの間に現れたのか、ラインハルトはリーネをとっさに抱き寄せ、槍の刃先からリーネを守ったのだ。
「ライン……ハルト?」
状況に頭が追いつかず、呆然としていると、ラインハルトはちらりとリーネに目を落とし、返事の代わりに腹部に回した腕に力を入れた。
「ラインハルト様……」
怯えるような、か細い声を漏らし、ウルリヒは槍を落とした。
その手は震え、持っていられなくなったらしかった。
派手な音を立て、石の床に落ちた槍。
ラインハルトは忌々し気にそれを睨むと、剣先で弾き飛ばす。
それから、間髪入れず、刃先をウルリヒの首元に突き付けた。
既に戦意を喪失し、
「ラインハルト様、私は——」
「主の最愛の者に手を掛けた。どんな理由があろうとも、それは万死に値する行為だ」
低い声で唸るように絞り出す声は、地の底から響いてくるようだった。
「おお、ラインハルト様……私はあなたを愛しているのです。あなたの御側に仕え、あなたの創造する闇の世界を共に眺めていたい。ただ、それだけです……」
ほろりと涙を流すウルリヒの顔から、罅が消えていく。
口元にこぼれた牙は縮み、唇は徐々に元の形に戻る。
人間にしか見えない姿で、ウルリヒは涙を流し続ける。
彼は、首元に突き付けられた刃先に、震える手を当てる。
「けれど、あなたがそう望むならば、私はここで散りましょう。あなたの歩む道に、紅い花びらを散らすために」
ウルリヒは両掌で銀色の刃先を握り込んだ。
たらりと、刃先に赤い線が走る。
鮮血が
次から次へと流れ出す赤い血に、リーネは気が遠くなった。
足からも手からも力が抜け、ラインハルトの腕に支えられる形になる。
「……や、めて」
言葉を絞り出す。
それはひどく小さな声だった。
けれど、血は流れ続ける。
ぼたぼたと、石の床に染みが広がり続ける。
「やめてくださいっ‼」
もはや悲鳴だった。
リーネは顔を歪め、首を振った。何度も。
「お願いだから、やめてくださいっ!」
リーネは懇願するように、ウルリヒを見、それからラインハルトの横顔に視線を向けた。
だが、ふたりはリーネの声が聞こえていないかのように、変わらず静かな戦いを繰り広げている。
そのとき、ラインハルトが柄を握る手に力を入れた。
このまま首を切り裂こうとしていると気づき、リーネは大きく頭を振り、自分を支えてくれているラインハルトの腕を掴み、自分の言葉に耳を傾けてほしい一心で、わざと爪を立て、すぐ真上にあるラインハルトの険しい顔を見つめた。腕を揺さぶれば、剣先がぶれ、ひどい結果になるかもしれない。できるのは、力いっぱい掴むことだけだ。
「剣をおろして! ウルリヒさんを殺さないで! 右腕だと、参謀だと聞きました! 大切な腹心なのでしょう⁉」
「クリスティーネに手を掛けた者だ。生かしてはおけない」
「千年も……千年も前の話です‼ もう終わった話なんです! とっくの昔に‼」
「月日など関係ない。私には今日のことも同然だ。一瞬たりとも忘れたことがない」
意思を曲げる気はないと言外に言い放つラインハルトに、リーネは唇をきゅっと噛む。
刃を握りしめたままのウルリヒを見れば、諦観の念を漂わせ、はらはらと涙を流し続けている。けれど、その目は、ラインハルトを映し出し、どこか幸せそうに見えた。
リーネは再びラインハルトを見上げ、きゅっと眉を寄せると、掴んでいた力をふっと抜いた。
「それなら、結婚しません」
ラインハルトは動きを止め、訝しげにリーネを見下ろす。
「……クリスティーネ?」
わずかに戸惑うように揺れる黒い瞳と目が合うと、キッと睨み据え、唇を動かす。
「この人の命を奪うなら、結婚なんて絶対しませんから‼」
きっぱりと言い放つ。
一拍置いて、ラインハルトの目がみるみる見開かれる。
心臓に一突き食らったような驚きがその顔に広がり、ややして歪み始める。
心が大きく揺さぶられているのが、傍から見てもわかるほどだ。
ラインハルトが柄を握った手を下ろす。
リーネの腰に回されていた腕の力も緩んだ。その隙に、リーネは彼の腕から抜け出し、距離をとった。
見る間に、しぼんでしまったラインハルトに、じわじわと罪悪感が広がったが、手を差し伸べるのは踏みとどまる。胸の奥が
「やはり堪えるな……そう、はっきり言われてしまうと」
口元に力ない笑みを浮かべ、ラインハルトは目を伏せる。
「君が乗り気でないことはわかっていた。だが、このまま押し切れば、私の物になる。耳を、目を塞ぎ、時が過ぎるのを待てば、君の心を振り向かせることができると思っていた」
立つ力もなくしたのか、ラインハルトはふらりとよろけ、剣先を石床について身を支える。
足を踏み出し、手を伸ばしかけたリーネは、はっと動きを止めた。
ここで軟化してはいけない。
ウルリヒの命がかかっている。それでも、こう言わずにはいられなかった。
「ここで彼を助けてくれたら、私は進んで結婚を承諾します。だから、彼の命を助けてください」
ラインハルトはじっとリーネを見つめ、深く息を吐くと、目を逸らし、肩を竦めた。
やがて、傾きかけっていた体をしゃんと伸ばし、またも剣をウルリヒに突き付ける。
だが、そこに先程までの殺気は感じられない。
表情も真剣そのもので、そこに憂いや迷いなかった。
「今すぐ、その穢れた魂に刻みつけろ。お前の命を救い上げたのは、聖女クリスティーネだ。その名を忘れるな」
静かに言い放ち、彼は剣を腰に帯びていた柄に収める。
天窓からわずかに光が差し込み、クリスティーネ像が白く浮かび上がる。
静寂が訪れた。
ウルリヒは瞼を閉じ、涙の筋が幾重にもできた頬を拭うことなく、
短い沈黙の後、重く首を垂れると「御意」と答えた。
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