第37話 愛を裂く者

 黒い茨の茂る場所に、ぽつんと佇む白い神殿があった。

 ひび割れ、ところどころ風化し、黄ばんではいるものの、この場所では白く浮いていた。


 中に入れば、古くなった神殿が嘘のような、白く輝く大理石の彫像が立っていた。

 波打つ豊かな髪は腰まであり、緩やかなひと繋ぎの衣服を身に纏う彼女は微笑みを湛え、両手にいっぱいの花束を抱えている。左肩には、尾羽がゆるりと優美に伸びる、美しい鳥の姿もある。

 彼女の足元には、円形の台座があり、そこにはこう記されている。


 〈永遠の愛を クリスティーネ ここに 眠る〉


 天窓から光が差し込むようになっているようで、クリスティーネ像が光に包まれるように設計されたようだ。だが、この地に差し込むような光などない。常に太陽は雲で覆い隠されているのだ。それでも、窓のおかげで像だけはぼんやり浮かび上がっている。

 彫像の正面に立ち、彼女の顔を見上げ、リーネは胸が痛くなった。

 月日を感じさせない彫像は、常に手入れがされているのだろう。磨いたように輝いている。

 その足元には、黒い茨しか育まない大地では見ることも叶わない、美しい花が幾本も置かれていた。

 リーネは屈みこみ、彫像に捧げられたまだ瑞々しい白い花を眺めた。


「全く、目障りだ」


 背後から、吐き捨てるような声がして、リーネは振り返る。

 ウルリヒが冷めた瞳で、リーネを見下ろしていた。

 その視線に、突如、ずきりと胸が痛み、リーネは顔を顰め、とっさに胸のあたりを抑えた。




 ウルリヒに連れて来られたのは、広い裏庭にある小さな神殿だった。

 魔王城にそぐわない、神聖さすら感じさせる神殿に、リーネは違和感を覚えながらも、中に入った。そして、クリスティーネの彫像を目の当たりにしたのだ。刻まれている文言からして、ここはクリスティーネの墓なのだろう。

 城内の案内というから、てっきり、大広間や王座の間などを案内されると思っていた。けれど、クリスティーネの生まれ変わりと勘違いされているのだから、彼女の墓に案内されるのもおかしいわけではない。

 

 口を真一文字に結び、一言も発する気のなかったウルリヒがようやく口を開いたと思えば、心無い一言だった。


「千年も昔に消滅したはずのお前が、なぜここにいる? なぜ、またあのお方の前に姿を現した?」

 

凍てつく視線を向けられ、リーネは息を呑む。


「魂を裂かれてもなお、あのお方を惑わせるため、再生したというのか?」

 

 頭から氷水を浴びせられたような気がした。

 どうして、会ったばかりの人に、冷酷な眼差しを向けられるのだろう。

 どうして、わかりもしないことを詰問されるのだろう。

 勝手にリーネをクリスティーネの生まれ変わりだと決めつけ、話をどんどん進めてしまうのは、ラインハルトも同じだ。だが、彼には溢れんばかりの愛情があった。クリスティーネに向けるように、リーネにも温かな気持ちを向けてくれる。

 だが、ウルリヒは違う。明らかに、リーネを敵視している。

 理由はわからないが、千年前からクリスティーネのことが気に食わなかったのだろう。

 

 けれど、だからといって、突然クリスティーネの生まれ変わりだと断定され、戸惑い、信じられずにいるリーネに対して、怒りをぶつけるのはどうか。あまりに理不尽じゃないだろうか。そもそも、ここに来たくて来たわけではない。勝手に連れて来られたのだ。しかも、婚姻だって承諾していないし、今すぐにでもここを去りたいくらいなのだ。あなたの魔王様が好き勝手に振る舞っているせいで、こうなっているんだと言ってやりたい。


 ふつふつと湧き上がる不満ややるせなさが、気持ちを強くさせる。


「そんなこと知りませんっ! そんなに気に食わないなら、追い出してください!」

 

 声を荒げると、ウルリヒがカッと目を見開いた。その目は血走り、きゅっと瞳孔が細くなる。いつの間に裂けたのか、頬まである三日月のような口がぱくりと開き、鋭い牙が覗く。瞬時に空気ががらりと変わり、リーネは目を見張る。

 

 ウルリヒの髪が風で煽られるようにバサバサとしなり、白い頬に黒い罅割ひびわれのような亀裂がいくつも走る。彼の背後に、大きな翼が広がった。蝙蝠のような、鋭利な骨に薄い膜を張った翼。


「黙れっ! 矮小な人間如きが、闇の眷属に気安く口をきくなっ‼」


 びりびりと空気が震えた。

 足が竦み、一歩も動けなかった。

 けれど、心臓は煩いくらい激しく脈打つ。

 目の前にいるのは、無表情を張り付けた冷酷な男ではない。

 今や、怖ろしい姿を持つ、闇の世界の生きる魔物だ。

 曇天でも光が入り込み、それなりに明るかった神殿内が、急激に光を失ったように感じる。

 ウルリヒの吐く息は黒い靄のようで、彼が呼吸する度、その靄が辺りを闇に染め上げていく。

 血も凍るような恐怖で、身動きが取れないリーネに、ウルリヒがふんと鼻を鳴らした。


 今まで魔物を前にしたことはほとんどない。

 千年前、魔王が異次元に追いやられてから、平和な世が続いていたから。

 見たことがあるとしても、獣型の魔物で、口を利くことはなかった。凶暴な獣という位置づけだった。だが、今リーネに虫けらを見るような金色の目を向けるウルリヒは、姿こそおぞましいが、二本足で立ち、言葉を操る。獣というより、人間に近い。

リーネの想像する魔物像とかけ離れた姿に、呼吸がうまくできない。

 

 蒼白になったリーネに見下すような眼差しを向けながら、ウルリヒは口角をきゅうっと持ち上げる。先の尖った牙が、押し出され、異様に強調される。

 ぞっとした。

 先程までのウルリヒの面影が残っているからこそ、余計に禍々しく感じられる。


「失敗したのかもしれない、千年前は」


 ぎらぎらと金色の瞳が輝き、細められた。

 彼は胸の前に腕を突き出すと、両掌を上向けた。そこに視線を注ぐ。すると、黒い煙が徐々に立ち上り始める。


「だが、今度こそは、確実に」


 黒い煙が渦巻き、棒状に伸びる。

 息をつめて見つめていると、煙の中から一本の槍が現れた。

 銀色のぎらりと光を放つ三股の鋭い刃に、艶やかな黒色の柄を持つ、長槍。

 そのとき直感した。

 この槍こそが、吟遊詩人の語った、〈魂裂きの槍〉なのだと。

 

 千年前、聖女クリスティーネの命を奪い、魂を消滅せしめたという、槍。


(この人が……この人が千年前にクリスティーネを殺した?)


 意識が飛びそうなほどの恐怖の中、頭の隅でぼんやりと考える。

 ウルリヒは愉しそうに笑みをこぼし、槍を片手でしっかり握ると、三つの刃をリーネに向けて、槍を振り上げた。

 

 緩慢な動きで、ぎらつく刃先に目を向ける。

 この先、何が起こるか想像できる。逃げなくては、と思う。けれど、足も手も石のように固まったまま、動こうとしてくれない。心臓の鼓動だけが耳元で鳴っているのかと思うほど、煩いくらいだ。目が逸らせない。瞬きもできない。リーネは自分の命を奪うだろう、槍の先を見つめたまま、どこか他人事のように、目の前の状況を成す術もなく受け止めていた。


「去ねっ!」

 

 思い切り振り上げられた槍が、勢いよく落とされる。

 自然、瞼がぎゅっと閉じる。

 刹那、キンっという耳をつんざくような音が響いた。

 体に強い衝撃を感じたのも束の間、頬に鞭のような何かがあたった。


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