第26話 虫の命
そのとき、バルコニーの隅の石床に、薄い黄緑色の蛾が羽ばたいているのが見えた。
一瞬、ぎょっとして息を止める。
だが、黄緑の蛾はぱたぱたとするだけで、飛び立つ気配がない。
リーネはやや躊躇った後、ちらりと横目で歌い続ける吟遊詩人を見てから、彼が瞼を閉じて、こちらを見ていないことを確認すると、足音を消して蛾に近づいた。
目を凝らすと、冷たい石床の上の蛾は、既に弱り果て、飛び立つことはおろか、歩くこともできないことがわかった。
(死んでしまう……?)
ずきりと胸が痛み、リーネは蛾の傍らに両膝をついて屈みこむ。
寝衣が汚れることなど構わず、リーネは片手を蛾の上にかざす。
「《——癒しの神セレーネよ。どうか、この者の負った傷や病を癒し、命の火を再び灯してください》」
小声で唱え、胸の内に生まれた白い光を、掌から命の消えかけた蛾に注ぎ込む。
じんわりと温かい白い光が、黄緑色の蛾を優しく包み込んだ。
少しして、光は消えた。
リーネはわずかに疲れを感じながらも、蛾の様子を見て、微笑んだ。
それまで弱々しく羽を動かしていた蛾は、見違えるほど力強く羽を伸ばし、ぱっと宙に飛び立った。リーネは驚いて、飛びのく。苦手でない虫もいるが、蛾は得意な方ではない。
夜空へ飛び立った蛾を見送り、はたと音楽が止まっていることに気が付く。
慌てて手摺の向こうに座る吟遊詩人に視線を走らせると、彼は菫色の瞳で興味深げにリーネを観察するように見つめていた。その視線に、責められていると思ったリーネは、さっと立ち上がり、とっさに頭を下げる。
「ご、ごめんなさい! 途中まではちゃんと聞いていたんですけど……」
せっかく、リーネのためだけに歌ってくれていたのに、そのリーネが聞いていなかったのだ。気を悪くして当然だ。
「顔を上げてください。謝っていただく必要はありません。私が勝手に歌っていたんですから——それより」
吟遊詩人はゆったりと立ち上がり、ベルコニーの手摺すれすれまで近づいて来る。
バルコニーは地面よりは一段高くなってはいるが、それほどの段差ではないので、顔を上げたリーネより、少し高い位置に彼の顔があった。
星空と立木を背景に、すらりとした細身の彼がいる。どこか怪しい雰囲気を纏った中性的な顔は、間近で見ると、たじろぐほど美しかった。
一瞬だけ、菫色の瞳に熱を帯びた光が輝いたが、すぐにそれは消え、優しげに細められる。
「なぜ、助けたのですか?」
突然の問いに、何を聞かれたのかわからず、目を瞬かせる。
「虫ですよ。先程、飛び立っていった——治癒魔法をかけたのでしょう?」
蛾を助けるところをばっちり見られていたらしい。
小声ではあったが、見る人が見れば、詠唱を耳にしていなくとも、何をしていたか一目瞭然のはずだ。
気が咎め、悄然としたリーネは、こくりと頷く。
演奏中に、別のことに気を取られていたなど、歌い手からしたら許せない所業だろう。
「あの虫にとって、生き永らえることは果たして幸せだったでしょうか?」
吟遊詩人の言葉に、リーネはますます居た堪れなくなり、俯く。
「勘違いなさらないでください。私は、あなたが歌の途中に、哀れな虫を助けたことを責めているのではありません。純粋に、なぜ助けたのですかと聞いているのです」
その声音に、責める響きがないことに今更ながら気が付き、リーネは顔を上げた。
吟遊詩人は、裏の意味などなく、言葉通りの質問をしていたらしい。
だが、そうとわかっても、リーネは何と答えれば良いのかわからなかった。
なぜも何も、今にも死にそうだったからに決まっている。
でも、そう答えても、彼は納得しない気がした。
「あの虫がどうして弱っていたのかわかりません。天敵に追われ、傷ついたのかもしれない。病にかかり、動けなかったのかもしれない。単に寿命が来て、最期の時を迎えようとしていたのかもしれない。あなたのかけた魔法は治癒魔法だ。一時的に回復しても、死期が近い者を完全に救うことなどできません。あの蛾は、この後、夜目のきく鳥の餌食になるかもしれない。ここで命を落とした方が、まだしも幸運だったというような、残酷な死を遂げるかもしれません——それでも、あなたは目の前の命を救い続けるのですか?」
リーネは目を瞬き、吟遊詩人の投げかけた言葉の意味を考える。
今まで、そこまで様々な可能性を考慮して、傷ついた獣や虫に魔法をかけてきたわけではない。リーネはただ単純に、目に入ってしまった、傷ついた者を癒してきただけだ。
正直、それが正しいと思ってやってきた。
血を見ることが不得意で、多くの虫を苦手とするリーネは、それなりに勇気を振り絞って、治癒魔法をかけてきた。それが正しき行為だと信じて疑わなかったからだ。
元気になって動き出す生き物たちを見れば、満足感や充足感さえ湧いてきた。
だから、今はじめて、善行だと思っていた行為に一石投じる言葉が投げかけられ、ひどく動揺していた。がんと殴られたような衝撃を受け、顔が強張り、体が硬直してしまう。リーネを見つめる吟遊詩人の瞳を直視することができない。
けれど、沈黙が耐えられなかった。正しいことをしているはずなのに、責められるような言葉を並べられたことも不本意だ。リーネは、先程の蛾が蹲っていた石床に目を落としてから、ゆっくりと顔を上げ、わずかに好戦的な瞳を、吟遊詩人に向けた。
「目の前に……傷や病を負った者がいれば、助けようと思うのはとても自然なことです。難しいことはわかりません——過去のことも、未来のことも。だけど、放ってはおけないって思います。私は治癒魔法が使える。それなら、迷わず助けるべきです。私は、そう思います」
どうにかそう言い切ってから、リーネは口を結ぶ。
思いの外、強い口調になってしまった。
けれど、吟遊詩人は別段気にした風もなく、小さく息をついた。
「……そうですね。あなたはそういう人だ」
目を伏せ、小さな声で言葉を落とすと、吟遊詩人は銀色の睫毛をわずかに震わせてから、ゆっくりと持ち上げ、まっすぐリーネを見つめた。菫色の瞳には、どこか苦し気な陰りが見える。
「あなたは目の前で苦しみ哀しむ者を、放ってはおけない」
彼は断定口調でそう言うと、口元を自嘲気味に歪める。
その表情が、リーネを不安にさせ、一気に体を冷やした。
言葉だけ聞けば、傷を負った者を救わずにはいられないリーネに対する侮辱のように取れる台詞だったが、彼の表情からするとそうとは思えない。全く別のことを考えているようだ。
「クリスティーネですね……まるで」
「クリスティーネ…?」
再び、彼の口に上った聖女の名に、ただただ繰り返す。
「クリスティーネもまた、傷ついた者を見捨てられなかった」
吟遊詩人はふっと微笑む。
夜空に浮かぶ月のように、その顔は静かな美しさを湛えていた。
「こんな逸話を知っていますか? 聖女クリスティーネが手を差し伸べた、最後の男の話」
首を傾け、問われたリーネは、ゆるゆる首を振った。
聖女クリスティーネについて知ることなどごくわずかだ。
「私が先程歌ったのも、その男の歌だったのですよ」
言われて、リーネは視線を彷徨わせ、先程の歌を思い起こす。
耳に蘇るのは、もの悲しい旋律に乗せられた物語。
彼は確か歌い出す直前、クリスティーネの歌と言う前に、恋の歌だと言わなかっただろうか。
(最後に手を差し伸べられた男の人が、クリスティーネに恋をしたってことかな?)
しばし考えこんでいると、吟遊詩人は心を読んだように、首肯する。
「そうです。彼女の慈悲を受けた男は、彼女を愛したのです。彼こそが、暗黒時代を支配した、暗き闇に染まりし王——魔王でした」
「魔王⁉」
女神と称えられるほど神格化された聖女クリスティーネと、暗黒時代の王である魔王の恋。それは、禁忌の恋なのではないだろうか。今まで、一度だって、そんな不敬な話を聞いたことがない。それほど衝撃的な逸話なら、後世にも語り継がれていそうなものだが。
「そんな話——」
信じられないと言おうとして、リーネは口を噤む。
吟遊詩人が、ほんの一瞬、泣きそうな顔をしたからだ。
(きっと、本当なのね。この人が嘘を言っても仕方ないもの……歌い手を心から悲しませるくらい、切ない物語なんだ)
リーネは視線を逸らし、手摺をぎゅっと掴む。
「魔王は、大怪我をしていたんですか?」
顔を上げて訊ねると、虚を突かれたような顔をしてから、吟遊詩人はふっと表情を和らげた。
「怪我はしていませんよ。魔王ともなれば、体の傷など魔力でどうにでもなりましたからね」
「でも、クリスティーネは、傷ついた魔王に手を差し伸べたんですよね?」
「傷と言っても、目に見えるものではなかったのです。いうなれば、心の傷、でしょうか」
「心の……」
思ってもみなかった返答に、リーネは目を瞬かせる。
魔王は心に傷を負っていたのか。
世を暗黒に陥れ、魔物たちを統べっていた王が——?
腑に落ちず、リーネは思わず眉を顰める。
「魔王とて、元は人間でしたから。いえ、人間だからこそ、魔王になったのかもしれない。心が弱かったからこそ」
「魔王が人間……? 魔物ではなく?」
リーネの知る魔王は、角が生え、鋭い爪と怪しく光る瞳を持つ、人間とはかけはなれた人物像だ。
(私が物を知らないのかしら? でも……魔王は魔物だって習ったような)
混乱する頭に手を当てながら、リーネは楽器を抱え直し、歌う準備を始めた吟遊詩人に目を向ける。
また先程の歌を歌うのだろうか。もしかしたら、蛾を助けていて気付かなかったが、まだ歌の途中だったのかもしれない。
「クリスティーネは、心に傷を負い、世界を闇で支配する魔王ラインハルトの元へ行った。そしてそこで、魔王の傍らに寄り添い、彼の心を癒そうとしたのです。だが、彼女は魔王の配下の者の手で命を落としました。魔王は嘆き悲しみました。今から歌うのは、魔王の嘆きの歌です。愛するクリスティーネを失い、絶望の深淵に沈み込んでいく男の」
言って、はたと思い出したというように、吟遊詩人は続ける。
「魔王の歌の後に、もう一曲歌いましょう。今夜は月が綺麗な良い夜ですから」
頭上に広がる満天の星空を仰ぎ、魅惑的な微笑みを浮かべる。
「もう一つの歌は、クリスティーネを愛したもうひとりの男——勇者の恋の歌です」
吊られるように夜空を見上げていたリーネは、顔を戻し、草むらの上に腰を下ろした吟遊詩人を見下ろした。
「三角関係……だったんですか? 恋多き女性だったんですね、クリスティーネは」
伝説の聖女が恋多き女性など、にわかには信じ難いが、それが本当ならば少し残念だ。やはり聖女は高潔な存在であってほしい。
顔を上げた吟遊詩人は不服そうに片眉を上げた。
「彼女の名誉にかけて言いますが、彼女はそんな移り気な女性ではありませんよ。彼女が愛したのはただ一人の男。魔王に寄り添っていた彼女ですが、心の中にはただひとりしかいませんでした。その命尽きる瞬間まで、彼女は彼を想っていましたから」
そう前置きしてから、吟遊詩人は楽器を奏で始める。
星の輝く夜空の下、静かな裏庭で、美しくも、哀しい調べに乗せられた、悲恋の物語。
リーネはその旋律に身を委ね、しばし千年前の、哀しい男女の物語に想いを馳せた。
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