第25話 吟遊詩人と恋の歌

 エーヴァルトの予告通り、その日の晩マルク主催の晩餐会が開かれた。

 バーゼル家の兄弟姉妹勢ぞろいの気詰まりな晩餐会に参加したリーネはすっかり疲れ切っていた。

 どうにか晩餐会を乗り切り、きらびやかなドレスを着つけた侍女に脱がせてもらって、すっかり純白の寝衣に着替えた。髪も櫛を入れたのだが、編みこんでいたせいか、ゆるく波打っている。


 リーネは張り出したバルコニーの白い手摺に組んだ手を置き体重を預ける。

 緊張し通しだったため、体が凝り固まっている気がする。

 気疲れも相当なものなのだが、だからといってすぐ眠る気になれなかった。

 少し夜風に当たりたい気分だ。

 天には、月と星々が煌めき、地上を照らしてくれている。

 宛がわれた部屋は一階の為、手摺を超えれば、すぐ裏庭に下りられる。

 けれど、裏庭は暗く、頼りは月明かりのみ。こんな夜にわざわざ散策しようとは思わない。

 

さっと風が吹き、髪を弄ぶ。

夏の気配がほのかに漂う季節だが、夜はまだ少しひんやりとしている。

ふと、どこからか風に乗って、楽器の音のようなものが流れて来た。

リーネは耳を澄まし、とぎれとぎれに聞こえるその音を掴もうとした。

最初はかすかにしか聞こえなかった音は、次第にはっきりと、音楽だとわかるほど近づいてきた。

 

 儚げな甘い音は、弦を弾く楽器から奏でられているようだ。

 いつの間にか、その音に身を任せ、リーネはうっとりと聞き入っている。

 気づけば目を瞑り、リーネは幻想の世界に浸っていた。

 ポロンと心地良い音を生み出す主が、すぐ目の前に立っていることにも気付かぬほどに。


「暗き闇に染まりし者 何を求め 彷徨い歩く ただ欲するは ただひとりの 乙女の心」


 もの悲しさを誘う旋律に合わせ、のびやかな低音の声が言葉を紡ぐ。

 その声に、自然と口元を綻ばせたリーネは、鷹揚に瞼を持ち上げる。


 手摺を隔てたそこに、一人の青年が立っていた。


 鍔の広い、派手な羽飾りのついた青緑色の帽子を被り、その下からは月光を受けて幻想的に浮かび上がる銀色の長い髪が伸び、肩の上に柔らかく乗っている。帽子と同じ色のマントを羽織り、その腕には木製の弦楽器を抱えている。白くしなやかな指先が、絶えず弦をはじき、薄い唇が零れるような言葉を紡ぐ。銀色の睫毛に縁取られた菫色の瞳は、伏せられているが、どこか遠くを見ているような不思議な印象を与える。


(誰だろう……?)


 どこかぼんやりする頭で、眼前で歌う青年の正体を考える。

 でも、それよりも、間近で演奏される楽器の音と、青年の歌声に心を持っていかれてしまう。


(まるで、魔法みたい)


 この世のものとは思われないほど、美しい音楽。

 教会ではオルガンに合わせ、讃美歌を歌うことはあったが、それとは全く趣が違う。

 夜空の下、奏でられる調べに、リーネはしばし酔いしれた。

 やがて、音は止み、青年は口を閉じた。

 訪れる、静寂。

 リーネは、いつの間にか閉じていた瞳を再び開けた。

 青年がどこか艶のある菫色の瞳で、リーネを見つめ、その口元は、緩やかに微笑みの形を作っている。


 どきりとするような視線に、はっと我に返った。

 目の前に、見知らぬ青年がいる。

 しかも、リーネをじっと見つめている。

 その事実を唐突に理解し、リーネは固まった。


 決して短くない時間、彼の演奏と歌声に聞き入っていたのだ。

 だのに、そのときは、彼の存在を一切疑問にも思わず、警戒心すら抱かなかったのだ。

 けれど、今は違う。リーネは突然現れた謎の青年に、思い切り不審も露わな瞳を向けていた。


「えっと、あなたは……?」


 不審感と恐怖心の滲む声音は、かすかに震えてしまう。

 すると、青年はふっと表情を緩め、持っていた楽器を脇に挟んでから、空いた方の手を胸の前に置き、恭しい態度で頭を下げる。


「これはこれは失礼しました。私は、城に招かれた名もなき吟遊詩人。夜風に当たろうと歩いているうちに、この庭に迷い込んでしまったようです」


「お城に招かれたんですか?」


「ええ。昨日から滞在しています。そういうあなたは……マルク様の愛しいお方ですか? お城で噂になっている容姿と似ているようですが」


 リーネは頭を抱えたくなる。

 晩餐会にて、そんな噂が広がっていると、マルクの妹のひとりであるクリスタが教えてくれたのだ。聞いたときは半信半疑だったが、まさか昨日訪れたというこの吟遊詩人が口にするとは。やはり噂は本当のようだ。

 

 どうして、マルクの恋の相手ということにされてしまったのだろう。今からでも、城中走り回って、誤解を解いて回りたいくらいだ。重くなる頭を何とか持ち上げ、リーネは首を振る。


「断じて違いますっ! 私とマルク様は決してそういう関係ではありませんっ‼」


 思った以上に大きな声になってしまい、少し後悔する。


「ですが、ここはマルク様の所有される別館だとお聞きしましたよ?」


 理解できないというように首を傾げる青年に、リーネはことの次第を説明した。自分たちは三人組であること。ルーカスを助け、その縁でマルクの館に留まっていること。決して、恋人や愛人といった関係ではないということ。


 青年は目を瞬かせながら、リーネの話に耳を傾け、終わる頃には一応は納得したというように頷いた。


「そうでしたか。まあ、でも、嘘から出た誠という言葉もありますしね。男女の仲はどうなるかわかりませんので、そう頑なに否定されなくてもよろしいかと。次の季節を迎える頃には、マルク様の傍らにあなた様が寄り添っているということも十分あり得ますよ」


 が、安心したリーネを尻目に、さらりとうそぶく。

 目を見張るリーネに、青年は愉し気な視線を送って来たあと、楽器を抱え直し、弦に指を添えた。


「せっかくですから、恋の歌を歌いましょうか。そうですね……聖女クリスティーネの歌などどうですか?」


「聖女クリスティーネ?」


 聖女の園を出て以来、彼女の名を聞くのは何度目だろう。

 今まで大して気にも留めて来なかった、千年前に生きた聖女の名前。

 千年前の勇者と魔王の戦いは、今も尚、多くの歌や物語として伝わっている。


 けれど、千年という年月は、百年に満たぬ寿命しか持たない人間にとって、あまりに長すぎた。千年の平和は、暗黒時代の記憶を忘却の彼方に押しやり、かつて命を賭して戦った勇者たちの奉仕や犠牲を忘れ去ってしまったのだ。子供の子守唄代わりと化した逸話、形骸化した祝祭。

 

 レーナは、千年前に戦った勇者の名を全て挙げることはできない。彼らの武勇すら、語れない。ましてや、魔王との最後の戦いの前に、あえなく散ってしまった聖女のことなど、気にも留めたことはなかった。

 

 だのに、エルベ村で出会った少女ニア、ルーカス、マルク、そしてこの吟遊詩人と名乗る青年までも、聖女クリスティーネの名を口にするのだ。それが、不思議でならなかった。

 

 狭い世界で生きてきたリーネにとっては遠い存在でも、広い外の世界では、極めて重要人物なのかもしれない。そんなことを考えた矢先、青年は地面に腰を下ろすと、指を軽やかに動かし、音を奏で始めた。


「清き御霊の乙女 麗しき黄金色の髪 翠玉のごとき瞳には 聖なる光が宿る 暗き闇に染まりし王に 安らぎの時を与えん為 その身を投じた 儚くも淡い恋の炎は 闇の王の内に灯り 争いの幕は閉じかけた 妬む臣下の手に落ちて 乙女の命 三つに裂かるる 闇の王 嘆き悲しみ 絶望の中に身を投げた 千年の孤独 永久の愛——」


 はじめて聞く旋律、はじめて聞く物語。

 初めて耳にする新鮮な音、けれど、どこか懐かしい調べに、リーネはなぜだか泣きたくなった。胸がきゅっと絞られるような痛みが走り、目を伏せる。


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