第23話 有難い申し出

 マルクの住む別館に滞在してはや三日。

 朝の静かな空気の包む室内に、聞き覚えのあるノックの音が響く。

 リーネは「はい」と答えてから、一度深呼吸し、気持ちを落ち着かせてから、扉に歩み寄り、ゆっくりと開く。


 そこには、思った通りの人物がきらめくような笑顔を湛え、立っていた。

 光りを集めたような金髪に、宝石のような澄んだ碧い瞳。すっとした目鼻立ちは、早朝とは思えない、さわやかさだ。ほんのり香るのは花の香り。青地に金の刺繍を施した騎士服は、彼によく似合っていた。護衛の騎士などは控えておらず、今日もひとりだ。マルクはご丁寧に毎朝挨拶にやって来る。


「おはようございます。マルク様」


「おはよう。よく眠れた?」


 当初と違い、すっかり気安い口調に変わったマルクだ。


「はい! 本当によくしていただいて」


「そんな畏まらないで。そうだ。今日は君に話があって。中に入っても?」

 

 一昨日、昨日と、簡単な挨拶と軽い立ち話だったため、リーネは思わぬ申し出に驚き、それでも断る立場にないことを思い合せ、こくりと頷いた。

 マルクは部屋に足を踏み入れると、扉を閉め、まるで当たり前のようにリーネの肩に手を置き、長椅子へと誘導する。身じろぎすればその胸板に触れてしまうくらいの距離を詰められ、身を細くして、マルクの言葉を待つ。


「ドレスは気に入らなかった?」


 マルクはクローゼットに視線を向けてから、リーネの瞳を見、わずかに眉を下げ残念そうだ。


 快適に過ごせるようにと、マルクは数着ドレスを用意してくれていた。

 厚意を無碍にしてしまっている自覚のあるリーネは目を伏せる。

 貴族の御令嬢が身を包むような、華やかなドレスを着るのに抵抗があった。確かに、素敵だなと思ったし、袖を通してみたいと思ったのだが——一人で着るには骨が折れそうだったのだ。


「いえ、とんでもないです! ただ、着たことがないものですから」


「人を呼んでもらえれば手伝ってくれるよ」


「えっと、お話というのは、ドレスのことですか?」


 まさかドレスの話をしに来たのではあるまいと、リーネは当初の目的を思い出してほしくて話を促す。


「いいや。ちょっとした提案なんだ。聞いてくれる?」


 碧い瞳が優し気に細められ、その上品な口元にふんわりした笑みが浮かぶ。

提案という言葉と、その表情に、リーネの胸に不安がよぎる。


(提案……)


 何となく聞くのが怖かったが、マルクは穏やかな調子で口を開いた。


「君たちにとって悪い提案ではないと思うんだ。ルーカスから、君たちが何かしらの事情を抱えていると聞いた。これは僕の憶測なのだけれど、君は聖女の園にいたのではない? それで、何らかの理由があって飛び出してきた。調べたところ、聖女の園を出る正当な理由は、力を失ったときだけだということだった」


 透き通った碧い瞳は、心を見透かそうとでもするように、リーネの瞳を覗き込む。

 リーネは咄嗟に顔を逸らし、膝の上の手をぎゅっと握った。


(ばれてるっ……)


 マルクはリーネ達が、神官たちを欺くようにして出てきたことを知ってしまったのだ。

 夜逃げのように出て来てしまった、逃亡の聖女。心臓がどくどくと早鐘を打ち、体が硬直してしまう。


(ど、どうしよう⁉)


 マルクが正義を愛する人間であれば、リーネ達を放っておいてはくれまい。否、彼は正義を愛する勇者なのだ。


 城壁に囲まれ、衛兵や騎士団が常駐する場所から逃げ出すのは至難の業だ。逃げ出す算段を整える時間さえ与えてもらえるかどうか——。

 全てがガラガラと崩れ落ちていくような感覚が襲ってきて、思わず堅く目を瞑った時、ふいに温かなものがリーネの手に触れた。はっとして、手元に目を落とすと、マルクの白い手がリーネの拳を包み込むように乗せられていた。顔を上げれば、安心させるように微笑むマルクが、首を横に振って見せる。


「心配しないで。君を聖女の園に連れて行こうなんて考えてもいないから」


 そう言われても、胸に押し寄せた不安の波は消えてくれない。

マルクはリーネの冷たい手を握り、反対の手を伸ばすと、リーネの頭に乗せた。そして、優しい手つきで撫で始める。本来なら、取り乱してしかるべきなのに、慌てふためいたり、身悶えしたりする心境になかった。だから、されるがままに、頭を撫でられている。


「提案っていうのはね、しばらくここにいたらどうかなってことなんだ。ただの客人では耐えられないというなら、仕事も用意する。エーヴァルトには、騎士見習いたちの剣術の先生で、リーネには騎士団専用治療院の手伝い。騎士たちは毎日の鍛錬で傷が絶えなくてね。君が手を貸してくれれば助かる。君のお姉さんは刺繍が得意と聞いたから、体に障らない程度に針仕事をお願いしようかなって。どうかな?」


 突然の申し出に、リーネは驚いて目を瞬かせた。あまりに突拍子もない提案だ。


(どうして? どうして、マルク様がこんなことを?)


どうやらマルクは、ここにリーネ達の居場所を作ろうとしてくれているらしい。

でも、なぜだろう。リーネ達の詳しい事情など、マルクは知る由もないのに。


(……エーヴァルトさんはもともと、商業都市エーゲルを目指していた)


 バーゼル領に到着する少し前、エーヴァルトがぽつりと口にしたのは、目的地がエーゲルだということだった。エーゲルにはエーヴァルトの知り合いがおり、そこにレーナを預けるつもりでいるらしい。そして、そのままリーネの案内で、蒼きリントヴルムの涙を手に入れるつもりだったのだ。


 それゆえ、エーヴァルトはヤンの護衛を二つ返事で引き受けた。

 反論するつもりだった。レーナを置いてなどいけない、と。けれど、口にはできなかった。すぐに手に入ると言った手前、レーナを置いていく期間も短いと思われているはずだ。そのくらい離れることに何の問題があるのかと言われかねない。

それで、言えなかった。

 

それから、一度もその話が持ち上がらぬまま、バーゼル領に到着し、牢獄に放り込まれるというハプニング。

ルーカスの依頼を無事果たし、無事牢から解放された今、目的を阻むものはない。彼の知人のもとへ急ぐだろう。


 だが、マルクとルーカスからの強引ともいえる引き留めを受けて、今日までマルクの館に滞在していた。


 その間、込み入った話をする勇気が出なかった。

 昨夜の晩餐の席で、やけにぴりついた空気を放っていたエーヴァルトを思い起こせば、今日にでも城を発つといってもおかしくない。おそらくそのつもりだろう。エーヴァルトとリーネが無理にでもマルクたちの誘いを断らなかったのは、ひとえにレーナの体調を思ってのことだ。そのレーナも昨日には調子も良さそうで、エーヴァルトやルーカス、マルクにチクチクと嫌味を言っていたくらいだから、今日出立することになっても特に問題はないだろう。


 リーネ自身も昨夜、少ない荷物ではあるが、いつでも出発できるようにまとめておいたのだ。その矢先の、申し出だった。


「リーネ?」


 考え込んで一言も発しなかったために、マルクは顔を傾けるようにしてリーネの顔を覗き込む。握られていた手にも力がこもった。リーネははっとして物思いから無理矢理意識を引きはがす。視線を上げると、目の前に端正な顔があった。あまりの近さに目を見開いてから、身を離す。


「す、すみません。とっても、有難いお話なのですが、私とレーナはエーヴァルトさんの同行者です。だから、勝手に決められないんです」


 どうにかそれだけ言って、ざっと頭を下げる。


「そうか……そうだよね」


 マルクの声のトーンが落ち、一瞬気まずい沈黙が訪れた。

 けれど、すぐに、いつもの朗らかな声音に戻ったマルクに顔を上げるよう言われ、リーネは躊躇いながらも顔を上げる。


 明らかにリーネ達を思っての申し出だったのに、こんな返事しかできないのが心苦しかった。ちらと見たマルクはリーネに無用な気遣いをさせないようにと、いつもの優雅な微笑みを湛えている。


「あとで、エーヴァルトに話してみるよ」


 言って、マルクはリーネの頭を優しく撫で、握っていた手をそっと包み込む。

 やがて、名残惜しそうに放すと、マルクはおもむろに立ち上がって、部屋を後にした。

 ひとりになったリーネは目を伏せる。

 そろそろエーヴァルトに話さねばならない。


「レーナのこと、解決しないと」


 もう後回しにできなくなってしまった問題について、ようやく考え始める。ずきっと痛む胸に顔を顰めながら。

 

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