第28話 蒼き勇者と聖女の夢

 見上げれば、薔薇のような窓から、静かな光が差し込んできていた。

 はめ込まれたステンドグラスが深い海のような色をしているため、窓を通る光は全て、心をしっとり濡らすような青い光となる。

 祭壇の前に、跪いき、指を絡めるように胸の前で組む。

 静謐な空間で、ただひとり、神に祈る。

 ふとすれば、波打ちそうになる心を、宥めるようにしながら。 

 そのとき、扉の開く音がしたとほぼ同時に、一人の青年の声が響いた。


「クリスティーネ、ここにいたのか」


 胸をざわつかすその声に、祈りを止めて振り向き、ゆっくりと立ち上がる。


「蒼き勇者様」


 呼びかけるというより、呟くように声を溢す。

 紺青の髪に、礼拝堂に降り注ぐ青い光とよく似た深海色の瞳を持つ、美丈夫がいた。

 体を黒いマントで覆い、腰には剣をはいている。

 彼は迷いのない足取りで、こちらへと近づいて来る。

 暗き闇の王に立ち向かう勇者たちの中でも、一際目を引く、凛々しい青年だった。

  ときめきそうになる胸を振り切るように、微かに首を振り、腹部辺りで組んでいた手に力を込める。それから、不自然にならないよう微笑みを浮かべた。


「名前で呼んでくれないのかい?」


 蒼き勇者は歩みを止めないまま、苦笑した。

 そして、すぐ目の前で足を止め、見下ろしてくる。

 その瞳に浮かぶのは、愛しい者にだけ向ける甘やかな光。


「クリスティーネ、僕の愛しい人」


 彼の両の腕が伸び、クリスティーネを囲うようにして、自らの胸に抱き寄せる。

 光を集めたような金糸の髪に頬を寄せ、その頭に口づけを落とす。

 彼の胸にぐっと押し当てられ、今にも心臓が破裂しそうだ。

 背中に回された力強い腕、温かな胸板。彼の好む果実の香りの染み込んだ衣服。その全てがクリスティーネを包み込んでいる。


「君の守護鳥ラーラはいないんだね。それなら思う存分、君を独り占めできる」


 頭を屈め、クリスティーネの耳元で、囁く。いたずらめいた声音。

 直に響いた彼の声に、体がしびれて、力が抜けそうになる。

 けれど、彼の腕を支えに、どうにか踏ん張り、彼の胸に埋める形になっていた顔を上げ、抗議の意を込めた瞳で、彼の目を見返す。


「ここは神の御前。神聖な場所です。不埒なことはなさらないで」


少々きつい言い方になってしまったが、受けて当然の𠮟責だろう。

神に祈る聖女を突然抱き締め、甘い言葉を口にするのだから。


「全て承知の上。神に背いても、君をこの腕の中にしまっておきたいんだ」

 

 首を傾げるように見下ろす彼の髪は、青い光を受け、いつも以上に青く見える。

 その瞳も。吸い込まれそうになるくらい美しい青い光を湛えている。

 クリスティーネは直視していられず、俯いた。彼の胸に顔を埋める形になる。

 すると、くくっと喉を鳴らして笑いながら、彼の手がクリスティーネの頭に乗せられ、色気のない仕草で撫でられる。


「ひどいわ……」


 子供みたいに拗ねるも、体はすっぽり彼に預けたままだ。

 クリスティーネだって、彼と触れていたいと思う。誰に憚ることもなく、彼と愛を語らっていたいと。

 けれど、時代が、立場が、それをやすやすと許してくれないのだ。

 胸にさっと影が過る。


 そう、こんなことをしていられない。

 彼の胸に手を当て、離れようとしたのだが、彼の腕はそれを許さない。それどころか、ますますクリスティーネを捕らえる腕に力がこもる。


「すべてが終わったら——僕の伴侶になってくれるね?」


 はっとして顔を上げると、真剣な顔がこちらを見下ろしている。

 一瞬、舞い上がりそうになり、けれどすぐに冷たいものを押し当てられたように、心が冷え込む。

 

この言葉を、どんなに聞きたかったか。

どんなに心待ちにしていたか。

誰だって、愛する人から結婚を申し込まれれば、天にも昇る気持ちに違いない。

けれど——


「今はその時ではありません、勇者様」


 感情を押し殺した声で答え、クリスティーネは再び、彼の胸を押した。

 今度は難なく、彼の腕から逃れられた。


「ごめん……僕が悪かったよ。でも、覚えておいてほしい。僕は、いつだって、君との未来を糧に戦っているんだ」


 彼は空になった腕を見下ろしてから、ぎゅっと拳を握り込み、切なげに目を伏せ、口元だけ笑みの形にした。


 胸が痛かった。張り裂けそうなほどに。





 朝を告げる小鳥たちの声が聞こえ、リーネは瞼を開けた。

 つーっと温かいものが目尻から、耳に流れ落ちる。

 目元に触れると、指が濡れる。

 どうやら、夢を見て泣いてしまったようだ。


「クリスティーネ……の夢」


 昨夜、吟遊詩人の歌を聴いたせいかもしれない。

 彼は、クリスティーネを想う二人の男性について歌っていたではないか。

 今見た夢——ずいぶんはっきり覚えている。夢というより、先読みの力で見る予知に似ているくらい、鮮明だ。だが、聖女クリスティーネは千年も前の聖女。未来のことではない。


「蒼き勇者……」


 夢で見た勇者は、エーヴァルトやマルク以上に、美形だった。

 夢から覚めた今も、胸がドキドキしてしまうくらいだ。

 リーネはがばっと起き上がり、その鼓動を鎮めようと、寝台から下りて、両手を突き上げ、背を伸ばす。


そのまま、カーテンを開き、部屋に朝の光を取り込む。

そのあまりの眩しさに、思わず目を瞑った。

眼裏にふいに浮かび上がったのは、蒼き勇者の悲痛な顔だった。

夢で最後に見た顔だ。

 

 ずきりと胸が痛む。

 妙な夢だ。リーネの想像でしかない、聖女と勇者が、まるで本物のように感じられた。


「蒼き勇者の髪と瞳の色、エーヴァルトさんと一緒だった」

 

 魔王に勝利を収めた勇者たちは、王からそれぞれ爵位と領土を与えられ、その地を治める領主となった。一族は没落してしまったが、間違いなくエーヴァルトは、蒼き勇者の系譜にあたる。


「無意識に、エーヴァルトさんの容姿を投影しちゃったのかな」

 

 自分の単純さに苦笑しつつ、リーネは身支度を始めた。

 





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