第11話「閑話1・美術室の怪③」
スケッチブックに鉛筆で線を描き込む音と、体育の授業をしているクラスの喧噪、風で木々が揺れる音や校舎の外を車が走る音。それらが混じった、けれど静けさを感じる時間が過ぎ去っていく。
ある程度はキリの良い段階まで描いた私は空を仰ぎ見て、それから里美さんの方を向くと、丁度私の顔を観察しているようだった彼女と目が合った。
「っ、ご、ごめんなさいっ……!」
ジロジロと観察していたのを悪いと思ったのか、里美さんは怯えるように謝罪してくる。
「くすっ。課題の為なんだから、気にしなくていいのに」
そんな様子が面白くて、つい笑ってしまう。
「……――から」
「え?」
ふと里美さんが何かを言うが、声が小さ過ぎて聞き取れない。
「……私がジロジロ見てたら、皆、機嫌が悪くなるから」
「里美さん……」
どうやら謝ってきたのは、彼女のこれまでの経験による反射のようなものらしい。
「私……絵を描くのが好きで……つい色んなもの、ジロジロ見ちゃって……でも、それが気に入らないみたいだから……」
小さな声で、途切れ途切れに里美さんは自分のことを話してくる。彼女は絵を描くのが趣味だから、多分、日常的に色んなものを頭の中でスケッチしてて、それを嫌がる人達に今まで何か酷い事を言われてきたという事なんだろう。
「もしかして、顔を髪で隠してるのって――」
「……こうしてたら、見られてるのに気づかないから」
私の予想は的中したようだ。
だから彼女は髪を伸ばして、人の視線を遮る――と言うよりは、自分の視線を隠しているのか。
多分それは彼女自身が自分を護る為に身に着けざるを得なかった処世術で、それは何処か、人と特別な関係を作りたがらない私とも似ている気がした。
「そうだよね……人と関わるのって、怖いよね」
「っ……う、うん」
私の言葉に美里さんが頷く。いつの間にか、私は彼女にシンパシーのようなものを覚えていた。
「……夕花、さん」
「な、何?」
唐突に里美さんが私の名前を呼ぶ。
「……夕花さんみたいな人と話すの、初めてで……何だか、その、嬉しい……です」
「っ! わ、私も、里美さんと話せて嬉しい、よ」
「あぅっ!?」
私の言葉を聞いた瞬間、里美さんは顔を紅くして目を逸らし、私も恥ずかしくなって目を逸らす。
どちらからともなく鉛筆を動かし始め、また静かな時間が始まる。
沈黙の中、里美さんが口を開き、
「……夕花さんと話せて、良かった……ずっと、こんな時間が続けばいいのにって……そう思っちゃいます……」
「そう、だね」
私は彼女の言葉に頷いていた。
ずっとずっと、彼女と2人で絵を描いて。
外の世界は怖いから。何が起こるか分からない。誰が居なくなるか分からない。
人の心が分からないから。
絵を描く。里美さんの目、鼻、唇、頬、髪――彼女の全てを。
描いて、納得いかない部分を消して、また描いて……描く、描く、描く。
この世界には私と里美さんの2人だけになったみたいで、授業の終わりのチャイムが鳴るまで。
私達は絵を描く。
「あれ?」
私達は――いったいどのくらいの時間こうしているのだろう。
無心で描いてたら時間の感覚が無くなってしまったのか、気づけば私達の周囲は静けさに満ちていて、人の気配というものが無くなっていた。
「夕花、さん……」
「何?」
不意に里美さんに声を掛けられ、私は顔を上げる。
すると彼女は小さく笑みを浮かべながら口を開く
「私とずっと、こうしていてくれる?」
その質問に、私は何か大切なものを忘れてしまったような違和感を覚えたけれど――
「それは――」
自然と首を縦に振りそうになっていた。
「もち――」
「夕花、それ以上はダメよ」
けれど、次の瞬間に背後から肩に手を掛けられ、私は言葉を止めてしまう。
「え?」
「それ以上先に進んでしまったら、夕花自身が“向こう側”に取り込まれてしまう」
振り向くと、こちらを真っ直ぐに見つめる坂口さんと目が合った。彼女は私を覗き込むような体勢をしていて、サラサラと滑らかに滑る黒髪が頬に触れてくすぐったい。
「坂口、さん……あれ? 私、何が――」
頭がクラクラして、状況を呑み込めない。私、今の今まで、坂口さんのことも、私自身のことすら、全部忘れていた。
そんな混乱する私を抱き留めるように坂口さんが自らの方に引き寄せ、里美さんの方を見る。釣られて、私も里美さんへと視線を向ける。
「あ……」
彼女は私達を寂しそうに見つめていた。何か声を掛けなくちゃって思ったけれど、その前に坂口さんが口を開いた。
「ごめんなさい。あなたにも何か事情があるんでしょうけれど、“生霊”と私達は一緒にいられないの」
「生霊?」
坂口さんの言葉に、今までの違和感が蘇る。
いくら私でも、同じ授業を受けている人の名前を初めて耳にする何てあるだろうか。出欠確認は毎度するのだし、里美さんは私の後ろの籍に座っているのだ。
そして、彼女と絵を描き始めてから時間の感覚がおかしくなった事も、今なら違和感として捉えられる。
それは、彼女が“向こう側”の存在だから。
「“向こう側”は、現実とは時間の流れも、生と死の概念も、何かもが違うわ。彼女、里美さんと言ったかしら。そんな名前の生徒は美術を選択している学生には居ないわ」
それに、と坂口さんは続ける。
「私には分かる。あなたからは、生きている人間の気配がしない」
「……」
坂口さんの言葉に、里美さんは黙ってしまう。
そして、寂しそうな瞳が私を捉えた。
「里美さん……」
そんな彼女に私は、手を伸ばそうとした。今、何かを彼女に伝えないとダメだって、そんな気がしたから。
でも、彼女は私の様子を見て笑みを浮かべた。
「夕花さん……ありがとう」
「あ」
その言葉を最後に、里美さんの姿が消えていく。
同時に、周囲に音が満ち始めた。校舎から聞こえる喧噪や、外を走る車の音に包まれ、空を見上げると陽が傾こうとしていた。
「……私、どのくらい」
「もう18時前よ。昼休みに夕花の教室に行ったら姿が見えなくて、連絡しても繋がらないし、誰もあなたが居ない事に気づいていないようだったから、探していたの」
「そう、なんだ……ありがとう」
私は坂口さんに支えられながら立ち上がるけど、身体がフラフラして、足元が覚束ない。
「里美さんは、何だったの?」
私の言葉に、坂口さんは顎に指を添えながら、確かめるように口を開く。
「彼女は、美術室という空間に誰かが残した思念が“向こう側”に取り込まれて発生した、“生霊”みたいなものね。人の強い思念というものは、“向こう側”と相性が良いの」
「生霊って事は、彼女はどこかに実在するの?」
「かもしれない、という程度ね。私は感覚として分かるだけだから――人間と霊の感覚の違いは、昔の経験で分かるの」
何かを思い出すような坂口さんの表情に、私はそれ以上言葉を続けず、里美さんが居た方を見る。
「これ……」
そこにはスケッチブックが落ちていて、私はそれを手に取った。
「新藤、里美……」
彼女の名前が書かれていて、ページを捲ると、さっきまで彼女が描いていた私の絵が出てくる。
「……凄く、上手だ」
私なんかが言うのもアレだけど、里美さんの絵はとても上手――ううん、これは温かさを感じると言うべきか。
「悪意は無かったんでしょうね。きっと」
「うん。だってそんなものは、里美さんから感じなかったから」
彼女は寂しかったのだろう。
ずっと1人でいて、友達が欲しかったのかもしれない。そんな思いが形になって、偶々波長が合った私は彼女と出逢ったんだ。
「あ……」
そして残されたスケッチブックも消えていく。
空っぽになった手の平を見つめて、自然と私は目の奥が熱くなるのを感じた。
「私は、里美さんに何か残せたのかな……」
「どうかしらね。でも、さっきの絵を見たら、答えは分かるかもしれない――わね」
「……うん。そうだったらいいな」
空を見上げて、私は少しの間、確かに友達だった彼女に心の中で別れを告げた。
「……私、先生に絵を提出してくる」
「ええ。校門で待ってるわ」
坂口さんがゆっくりと遠ざかって行く足音を背後に、私は美術室へと向かう。
放課後の美術室では美術部の生徒が何やら絵を描いたりしていて、美術教諭は準備室の方で作業をしているのが常だ。
私は準備室の扉をノックし、ゆっくりと開くと、中には新藤先生が居た。
「? あっ、橘さん。課題の提出?」
「は、はい。遅くなってすみません」
坂口さんの言った通り、私が居なくなっていた事は他の人の認識では無かった事柄となっているようだ。“向こう側”というものは、そうやって人の認識を歪める。
「これです」
「ふむ」
私はスケッチブックを捲り、ついさっきまで描いていたページを開いて先生に手渡す。そこには里美さんの人物画が描かれている。
「……これ、橘さんの知り合いの子?」
「は、はいっ。パートナーを作れなかったので……」
「あっ……そう言えば、美術の授業受けている人数は奇数だったわね……?」
何故その事を忘れていたのだろうという表情で新藤先生は頭を傾げるが、これも“向こう側”による誤認の所為だろう。
「確かに受けっとったわ。お疲れ様――」
と、新藤先生は感慨深そうな表情で私の絵を見つめる。
「どうしたんですか?」
「あっ。ううん、何でも無いの。ただ……」
「ただ?」
「橘さんの絵が、昔の私にそっくりだから、ちょっと驚いて」
「え?」
そういえば里美さんの苗字って、新藤――
「私はここの卒業生なんだけど、昔の私は臆病な性格でね。他人と関わる事を怖がっては1人で絵を描いてた。友達と楽しそうにしている同級生を羨ましく思いながら」
「想像、出来ませんね」
「頑張ったからね。どうにかして美術に携わる仕事に就きたくて、このままじゃいけないと思って、人見知りを直す事から始めて、そして、絵を人に教える喜びを知って、今がある。この絵はその頃の私にそっくり……いえ、ちょっと違うかも」
「え?」
ふと新藤先生は私を見て、笑みを浮かべる。
「あの頃の私は、こんな風に笑えてなかったからね」
「あ……」
その笑顔が記憶にある里美さんの笑顔と重なって、私は胸をギュっと抑えた。
「嬉しそうな笑顔をしている、この子は橘さんのことを大切に思っているんだろうね」
「……そうだったら、私も嬉しいです」
「私も学生の頃に橘さんと出逢ってたら、楽しい学生生活が送れたかもしれないわね、なんてね」
その言葉に、それ以上何も言えなくて、私は挨拶をして足早にその場を離れた。
準備室を出て、坂口さんの下に向かう道中に考える。
“向こう側”と関わる事は、怖ろしい事が多い。私には想像もつかない出来事が起こる。その度に、きっと私は怖い思いをして、後悔するかもしれない。
校門で私を見つけた坂口さんが笑みを浮かべ、頬に掛かる髪を払いながら小さく手を振っている。それに私は手を振り返した。
けれど、それだけじゃない。私にも出来る事はあるかもしれない。
坂口さんの笑みを見つめ、儚さを纏った彼女のその表情を守れるなら、私は頑張ろうと思えた。
――どうか、こんな時間がいつまでも続きますように。そう願った。
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