第8話「彼女の側にはいつも怪談が。」
「う、んんっ……」
「起きた?」
「うん……あれっ?」
パッと目を開けると、こちらを覗き込む夜娃華と目が合った。夜娃華の髪の毛が私に覆い被さるようにして流れ落ち、いつもと変わらない表情の夜娃華の顔が見える。やっぱりとても綺麗だなと思ってしまう。後頭部に柔らかくて暖かい感触があるから、互いの顔の位置と距離的に、私は今、夜娃華に膝枕されているのだろう。
「って、何で!?」
声をあげ、私は直ぐに起き上がる。
「何っ? 何があったの!?」
混乱したまま周囲を見渡す。すると、いつの間にか私たちは旧校舎の、どこかの教室の中に居た。
「廊下で倒れていたんだけど、夕花が中々目を覚まさないから移動したのよ」
夜娃華は何でもないかのように言うけれど、私には何が何だかサッパリ分からない。
「あの地下室は、どうなったの?」
「さぁ? それは私にも分からないわ。まだ其処にあるのでしょうけれど、少なくとも、今は閉じてしまったわ」
「そう、なんだ」
安堵に、私は息を吐く。
「分かるのは、私がまた“向こう側”に行き損なったという事だけ」
夜娃華は、寂しげに呟いた。
「……坂口さんは、まだその、“向こう側”に行きたいの?」
「……分からないわ」
二人して押し黙ってしまう。静かな校舎の中、少しだけ気まずい沈黙が流れる。私は意を決して夜娃華に訊いた。
「坂口さんは、どうして“向こう側”に行きたいの?」
「あぁ、それはまだ話していなかったわね」
夜娃華が黙る。夜娃華の声は細いし、存在感が希薄だけど、決して会話が苦手な訳ではない。けれど今、夜娃華は迷っていた。私には、どう話せばいいのか迷っているように見えた。
やがて、夜娃華が口を開く。
「夕花には、私がどうして苗字で呼ばれるのが嫌か、言ったわよね?」
「……お父さんとお母さんが亡くなって、母方の叔父さんに引き取られてから苗字が変わったから、だっけ」
「そう。叔父は私の父とあまり反りが合わなかったみたいで、養子にする際に、感情的にも、今後の事も考えても、苗字を変えなさいと言われたの。叔父には奥さんはいるけど、子供がいないから、多分、私を跡取りにしたいのでしょうね。色々、忙しい人でもあるし」
夜娃華の家庭事情は中々に複雑なようだ。
「父と母が亡くなったのは、私が小学4年生の時。夏休みだから、家族旅行に行くからって、電車に乗っていたの」
昔を思い出すように、ポツポツと夜娃華は喋る。
「夕花もニュースとかで聞いた事があるんじゃない? あの時の脱線事故」
「うん……夏休みだけど、どこもそのニュースばかりだった」
乗客の大半が亡くなって、重軽傷者多数。そして、意識不明の重傷を負った子供が一人。
「その時の意識不明の重傷者が、私。髪を剃れば、あの時の傷跡がまだある筈よ」
「………………」
何と言っていいのか分からず、私は夜娃華の言葉を待った。
「不思議な事にね、私は意識を失っている間の記憶があるの」
夜娃華は宙を見つめる。私には、その瞳が深い水底を見つめているように見えた。
「暗い場所に居た。誰も居ない筈なのに、私の周りには確かに“何か”が居て、私を捕まえようとしているように感じた。怖くて、不安で、父と母を呼んだけれど、誰も来てはくれなかった」
話している夜娃華が震えているのが分かった。震えを抑えるように、夜娃華は自らの肩を抱く。
「その内、私は意識を取り戻して、一命を取り留めた。最初は、あの記憶は全部夢だと思ったの。でも、そうじゃないと知った」
不意に夜娃華の震えが止まる。それが何を意味するのか、私には分からない。
「生きている実感が無いの。自分の存在が酷く曖昧で、それを証明するように、周囲の人から、私に気づき辛くなっていく。そして、私は“向こう側”の存在を感じるようになった」
夜娃華の言う“向こう側”という場所。私も何度か、夜娃華と一緒にそれを垣間見る事はあったけど、二人とも、それが何なのか、本当のところは分からない。
「その時、気づいたの。私もあれらと一緒なんじゃないかって。そこに居るのに、気づかない、見えない、それって、私と同じなんじゃないかって。だからあの日、夕花と初めて出会った日も、私は“向こう側”に行こうとしたの。私の居場所はここには無くて、あちらに行くべきなんじゃないかって――」
「そんな事無い!」
夜娃華の言葉に、知らず私は叫んでいた。
「夕花?」
「そんな事、無い。夜娃華の居場所はここにだってあるっ。私が見つけたから、夜娃華がそう思うなら、私が夜娃華の居場所になるからっ!」
私は夜娃華を抱き締める。勝手に涙が溢れてくる。この存在を放したくないと、私は思った。
「夕花……うん、分かってる」
ソッと、夜娃華が私の肩を抱く。
「あの日、夕花は私を見つけてくれた。“向こう側”に行こうとしていた私を掬い上げてくれた。夕花はきっと、よく見える眼を持っている」
「よく見える、眼?」
「夕花は自分のことを、とても平凡だと思っているでしょう。普通の人が持っているモノに対して、自分が持っているモノはあまりにも小さいと。でもね、多分、夕花が持っているのは一番大切なモノ」
「私には、よく分からないけれど」
「でしょうね。でも、夕花はそれだけ、自分じゃなくて、他の人を見る事が出来るの。だから私を見つけてくれた。私にとって夕花はとても眩しくて、だから近くに居てほしくて、同じくらい、遠ざけたいの」
「え?」
夜娃華の声がまた震えている。今度は分かる。これは、恐怖だ。
「いつか、夕花すら私を見つけられなくなったらどうしよう、って。怖いの。あなたが私から離れてしまうのが。私は、私自身のことも分からないから、あなたのことも、分からないの。だから、ここに居たくないと思ってしまう。私は、怖いの……」
「……大丈夫だよ」
「あっ……」
私は夜娃華の頭を撫でる。サラサラの髪が指を滑ってくすぐったい。
「きっと皆、自分のことなんて本当には分からない。私だってそう。だから今の夜娃華が分からなくても、きっといつか分かるようになる。それまで、私は夜娃華の側にいるから」
「……うん。ありがとう、夕花」
そのまましばらく、私たちは抱き合ったままでいた。
旧校舎を出る頃には午後九時を過ぎていた。
「まずいよ坂口さん! 早く帰らないと怒られちゃう!」
「私は別に、そこまで厳しくない人たちだから、適当に言い訳すれば大丈夫」
「私は大丈夫じゃないよ! 坂口さん、走って駅まで――」
「夜娃華」
「え?」
「夕花、私のことは夜娃華って呼んでって言ったでしょう」
「え? いや、それはそのう、今後の努力に期待?」
「さっきは呼んでいたわ」
「うっ……それはこう、勢いと言いますか」
あんな話した後に苗字呼びなんて出来ないし、場の雰囲気というのもある。思い出すと、顔が熱くなるのが分かる。と、急に夜娃華が私の顔をグイっと覗き込んでくる。
「夕花? 何だか顔が紅いけれど」
「!? と、とにかく、今後に期待で!」
「あっ、待って!」
私は速足で歩き出した。後ろから夜娃華が追って来て、手を握られる。
「一緒に、ね?」
「……うん」
夜娃華と手を繋ぎ、私たちは歩いていく。
いつまでも、こうして夜娃華の側にいたいと思った。夜娃華が寂しがらないように。夜娃華が、自分自身を見つけられるように。
私はずっと、夜娃華の側にいる。
そう、思った。
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