第10話「閑話1・美術室の怪②」

 翌日、ついに美術の授業の時間になり、私は緊張で速まる鼓動を抑えるように胸に手を当てたまま、自分の席に座ってジッと前を向いていた。

「それじゃあ、今日から皆には人物画を描いてもらうからね。パートナーか、もしくはパートナーが欠席している場合は家族や友達の写真を使ってもらいます」

 教壇に立った女性――美術の担当教諭である新藤先生がハキハキとした口調でそう言った。

「その場合に限って特別に授業中のスマホの使用を許可するけど、遊ばないようにね」

 まだ若い先生だけど、生徒達に対してフレンドリーでありつつ、しっかりと厳しくするべき場面では厳しくする事も出来る良い先生だと評判だ。

 自分みたいな人見知りと比べると、陽の気が強過ぎて落ち込みそうにもなるけれど、一方で私の憧れでもあった。

 この人みたいにハッキリとした性格なら、私はもっと坂口さんの内側に踏み込めたりするのかなと考えたりしてしまう。

「――ううん。今はそれよりも、目の前の試練を乗り越えないと……」

 そう。私にはこの、人物画を描くパートナーの子と円滑なコミュニケーションを図るというミッションがあるのだ。

「あのっ……よろしくお願いします……」

「……よろしくお願いします」

 私がおっかなびっくり挨拶をすると、その子は小さな声で返事を返してくる。その時になって、私は初めて彼女の容姿をじっくりと見る事になった。

 長い前髪が目を覆うように被さっていて、こちらからは彼女の表情を伺い知れない。小柄という訳ではないけれど、身体を丸めて縮こまっているような姿勢の所為で、実際よりも小さく見える。

 失礼を承知で一言で言うならば、“陰気”という表現が的を得ているように思える。まぁ、私も人の事を言える立場ではなんだけどね。

 そういえば、私は彼女の名前を知らない。今更訊くのは失礼かもしれないけれど、名前を知らないのもそれはそれで失礼だろうし、うぅ……訊いておいた方がいい、かな?

「えっと……私、橘夕花っていうんだけど……あなたは?」

「……里美」

「里美さん……」

 聞き覚えがまったくない。そんな事ある? って自分で自分が信じられなくなるけれど、私は普段から呆っとしている事が多いから、聞き逃していないとは言い切れなかった。

 ちゃんと名前を覚えるようにしないと……。

 後から考えると、この時にもっと疑問を抱いてもよかったと思わずにはいられない。

「それじゃあ、里美さん……早速始めようかと思うんだけど、場所はどうしようか」

 新藤先生が自分達が集中し易い場所であれな美術室内でなくてもいいと言っていたから、何人かの同級生達は教室から出て、外で作業を始めている。私としては、あまり人がいない方がやり易いんだけど。

「……校舎裏、で」

「あっ、じゃあ行こうか里美さん」

「……うん」

 里美さん小さな声だけど、一応は応えてくれる事に安堵しつつ、私はスケッチブックと鉛筆等を持って立ち上がる。里美さんはゆっくりとした動作でそれに続き、私達は校舎裏へと向かう。

 道中に交わす言葉は無かったが、それでも当初の不安要素であったコミュニケーション問題も、思っていたよりはどうにかなりそうで、そう思うと沈黙も苦ではなかった。

 私達以外は誰も居ない校舎裏。昼食を取る時に生徒が利用出来るよう設置されたテーブルに道具を置き、椅子に腰掛けて里美さんの方を見ると、

「……」

 里美さんは無言のままスケッチブックに向かって、鉛筆を走らせていた。

「わっ……凄い」

 その淀みない動きに、私は思わず声をあげていた。

「っ!!」

「あっ、ごめんなさい。邪魔しちゃった、かな?」

 すると里美さんは驚いたように身体を跳ねさせるが、私の言葉には首を横に振った。どうやら邪魔ではないと言いたいらしい。

 私自身も早く描かないといけないから、それ以上は突っ込まずに描き始める――だけど。

「……」

 無心で描いているように見える里美さんは、長い前髪が簾のように彼女の顔を隠し、私からはその奥に微かに見える瞳や、キュッと閉じられた唇、後は顔の輪郭くらいしか見えなかった。

 髪型とかは個人の自由だと思うから、それ自体は別にいいんだけど、これでは私の作業が進まない。なので、私はなるべく失礼の無いよう声色に気をつけて口を開く。

「里美さん、あの、出来れば前髪を上げてもらったりは――出来ないかな?」

「っ!? ……ど、どうして」

 凄い驚いたように里美さんの身体がまた跳ね、少し焦ったように私に質問を返してきた。

「ごめんなさい。ちょっと、里美さんの顔がよく見えなくて……もう少し顔を見せて欲しいなって」

「あぅ……」

 少し困ったようにワタワタと身体を揺らしていた里美さんだが、観念したように少しだけ前髪を避けた。

「これで、どう……」

「うん。ありがとう」

 まだ見え辛いではあったが、先程に比べると大分彼女の顔がハッキリと見える。

 光が眩しいのか細められた目、恥ずかしそうに紅くなった頬。表情自体は幼く見えるが、顔立ちは整っていて、どちらかと言えば大人っぽい。不思議な印象を抱かせる顔。同時に、何故か私は彼女の顔に既視感を覚える。

 けれど私には心当たり何てまったく無くて、思い出そうとしても分からないから、一旦それは無視する事にした。

「わぁ。里美さん、綺麗な顔してる。前髪を短くして、もっと顔を見せればいいのに」

「えっ、あっ……な、何――っ!?」

 私の言葉に動揺する里美さんが少し面白くて、緊張が解けていくのを感じる。これなら、ちゃんと課題を終わらせる事が出来そうだ。

「さて、描きますか」

「……うん」

 私が小さく呟くと、聞こえていたのか里美さんが返事をする。

 その事に小さく笑みを浮かべた私は鉛筆をスケッチブックに走らせた。

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