第27話「迷い岩」
『もしもし夕花。無事かしら?』
スマホの向こうから、聴き慣れた夜娃華の普段と変わらない落ち着いた声がする。普通の人ならばこんな状態で何を呑気なと怒りを露にする事もあるかもしれないが、半年以上に渡る付き合いで夜娃華はこういう時こそ冷静に立ち回る事が出来る人だと知っていたから、私は自分が安堵するのを感じた。
彼女ならどうにかしてくれる。そう確信めいた安心感があった。
『今、私は初詣をした神社まで来てるわ。夕花と連絡が取れたという事は、あなたもこの近くに居るのね?』
「うんっ、今さっき神社に着いたの! 私達は大丈夫!」
女の子の手を握りながら、私は夜娃華に今の状況を話そうとする。迷子の子を一緒に連れていること、周囲に人間の気配がまったくしないこと、無数の謎の人影が私達を追っていることを。
『……私達は? 側に誰か居るということ?』
「そうなのっ。私と、小学生くらいの女の子が一人居て――」
『夕花、今直ぐその子から離れなさい』
「へ?」
しかし、夜娃華の珍しい強い声に遮られる。
「どういう事? あっ、私以外の人に聞かれると拙い話が――」
『違うわ。その子は危険なの。その子の方は見ず、直ぐに離れて』
「え……危険?」
夜娃華の言っている事の意味が分からず、小さい女の子をこんな場所で一人きりに出来ないという常識的な私と、夜娃華の言う通りにしなければと警鐘を慣らす私の間で板挟みになる。
結果、私はその場から離れられず、けれど手を繋いだ女の子の方を振り向く事も出来ないというどっちつかずな状況に陥ってしまった。
「……ごめんなさい、夜娃華。理由を、教えて欲しい」
『そう……そうね。貴女は理由も無く他者を切り捨てられる人間ではないものね』
夜娃華が一瞬、考えるような間を置く。多分、私に話す為に要点をまとめているのだろう。
不思議な事に、先程まで迫って来ていた人影達はそんな私達を前にピタリと静止し、女の子も口を開かずにジッとしていた。聴こえるのは微かに吹く風と、電話の向こうからの夜娃華の息遣いだけ。身体が冷え始めているのは、気温の所為だけなのだろうか。
『“迷い岩”という言い伝えがこの地域にはある』
淡々とした口調で夜娃華が喋りだす。
「迷い岩?」
『ええ。この神社の近くに、自殺の名所となっている、とある山があったのだけど、“迷い岩”と後に呼ばれるようになったその岩の上で、何人もの人間が首を括り、或いは腹を裂いたわ』
「うっ……」
夜娃華の言葉から凄惨な光景を想像し、吐き気を覚える。そんな私の様子に気づいているのかいないのか、変わらず夜娃華は話を続けた。
『その岩はたくさんの自殺者たちの糞尿や血、臓物に塗れ、未練という強い情念を吸い続けたわ』
「未練……迷い……」
『何時しか、その岩は心に迷いがある者を絡め捕る呪いを持つ存在として、“迷い岩”と呼ばれ、人々に恐れられたわ』
想像する。この世への未練に塗れた死者達が、のうのうと生きる生者を道連れにしようとするのを。
『あまりにも被害が酷いので、当時のこの神社の神主が神社に伝わる御神体の力を持って“迷い岩”を封じる事にしたの。けれど、岩に沁みついた情念はあまりにも大きく、常に御神体の近くに無ければ封じる事が出来ない。だから岩をその場から移動し、神社の敷地内に祠を作って封印した』
「祠……それって、もしかして――」
目の前にある祠を見る。其処には人が身体を丸めたような形をした、奇妙な岩が在る。もしかして、この岩が。
『ご明察。今、私達の目の前にあるその岩が“迷い岩”と呼ばれる代物よ』
急に気温がより低くなったような気がした。先程とは比べ物にならない程の“嫌な予感”に、身体がガタガタと震えだし、女の子と握った手から力が抜けるが、その手はギュっと強く、強く握られ、離される事は無い。
『封印は上手くいったようで“迷い岩”による犠牲者はいなくなったのだけど、夕花、貴女はなまじっか眼が佳いばかりに、見えなくていいものすら見通してしまったようね。文献によれば、“迷い岩”は人に警戒心を抱かれない幻影を用いて、犠牲者を引き寄せていたそうよ』
身体が、手が震える。きっとこの震えは手を繋いだ女の子にも伝わって――ううん、“女の子の形をしたモノ”にも伝わってしまっているだろう。不自然に周囲は静かで、きっとここは、岩の上で命を断った者達や引き寄せられた犠牲者の成仏出来ない魂が閉じ込められた世界なんだろう。ならば、この子は私を――
『もう一度言うわ、夕花。その子供から直ぐに離れなさい』
「う、うん……っ!」
今度は躊躇わなかった。女の子の手を振り解き逃げようとする――が、握った手はビクともしない。
「お姉ちゃん、何処に行くの?」
「あっ……」
女の子の声に私は耳を傾けてしまった。
「お姉ちゃんは何処にも行かないよね? 私と、私達と、ずっと“此処”にいるよね?」
女の子の声が変質し、その不協和音のような強い響きに私は振り向いてしまう。
「お姉ちゃん」
「ひっ!?」
目と目が合う。いや、正確に言えば、そこに目は無かった。
女の子の目と口のあった部分に、底の見えない空洞が出来ていた。
「おねえちゃん」
「い、いやっ……」
どこまでも続くような闇が覗く空洞から響くような声に私は後退りしそうになったが、捕まれた手を振り払おうにも力が強くてどうする事も出来ず、逆に引っ張られてしまう。
「きゃっ!?」
『夕花!』
手に持ったスマホが落ちる。そこから夜娃華の声が聴こえた。
「おねえちゃんも、わたしたちといっしょに、ずっとここにいようよ。ね?」
女の子の顔の空洞から、ドロリとした黒い液体が溢れ出す。真っ黒なその液体が伝い落ち、私の手にポタリと垂れた。
「冷たっ……!?」
まるで氷を素手で握り締めたような冷たさ。その冷たい液体が何滴も私の手に零れ落ち体温を奪っていくと同時に、まるで液体が沁み込んでいくかのように、私の皮膚が黒くなっていく。それはまるで周囲を囲む人影と同じ様で、もしかして、この人影達は“迷い岩”の犠牲者で、今から私も彼等みたいに成ってこの世界を彷徨う事しか出来なくなるのでは、という最悪の結末が浮かぶ。
「い、嫌っ、放してっ……!」
「はなさないよ。みんな、いっしょ。みんな、まよってた。だから、ここならもう、まようことなんて、ないんだよ?」
この世界なら迷う事が無い? 私には、彷徨う彼等がそんな風には見えなかった。此処は、魂の牢獄だ。
「助けて――」
「こわがらないで、おねえちゃん。わたしと、わたしたちと、ずっといっしょに、ね?」
ニコリと、顔の形をした空洞が歪み、一気に黒い液体が溢れ出す。繋いだ手から肩までの感覚が既に消えていて、その先まで冷たくなっていく。服で見えないけれど、きっとそこまで液体が沁み込んでいるのだろう。
「夜娃華――」
もう私は耐える事が出来なかった。
「助けて――夜娃華っ!」
夜娃華の名前を叫ぶ。叫んでどうにかなるなんて思えないのに。私と夜娃華の間には、世界という大きな壁がある。彼女がこっちに来れるかなんて分からないのに、私は夜娃華に助けを求めていた。それでも、と私は夜娃華を信じていた。
「むだだよ。もうおねえちゃんはここからでられないし、だれも、ここにはこれない――」
グイっと女の子の手が私を引く。近付いた女の子の声は、確かに喜びに満ちているように聞こえた。
「夜娃華ーーっ!」
「ずっといっしょだね。おねえちゃ――」
「ごめんなさい、夕花は私の連れなの。返してもらうわね」
不意に、私と女の子以外の声がした。
「え?」
同時に、女の子と握った手とは逆の手が温かくて柔らかい感触に包まれる。
「夕花は渡せないわ。私の大事な友人なんだから」
「やえ、か……?」
聴き慣れた、夜娃華の声。細いのに、私の心によく響く確かな声。温かさが身体中を満たして、さっきまで感じていた冷たさが引いていく。
「……」
さっきまで饒舌に喋っていた女の子が何も喋らなくなる。手を握る力も、随分と弱くなっているように感じた。
「私のことは取り込めないでしょう? 元より、私はあなたの呪いの対象範囲外のようだし」
声と感触だけだった夜娃華の存在がどんどん確かになっていく。今、私の背後から夜娃華の息遣いを感じた。
「遅くなってごめんなさい、夕花。此処は遠いから、一番近い場所に居ないと、こうして触れる事が出来なかったの」
「……ううん。ありがとう、夜娃華」
「どういたしまして。さぁ“迷い岩”、夕花を返して頂戴」
「……」
スッと、消えるように女の子、“迷い岩”が私から遠退く。そこで完全に私の身体から冷たさが消え去り。夜娃華から伝わる温かさで満たされていく。
「夜娃華」
「もう終わったわ。“迷い岩”は封印されているから、私まで取り込む程の力は無い。だから、帰りましょう」
「うん」
振り返る。そこには優しい笑顔を浮かべた夜娃華が居た。やっと安堵して、私は頭を下げる。
「ありがとう、坂口さん。また助けられちゃった
「夜娃華」
「え?」
ポツリと夜娃華が零す。
「さっきまで夜娃華と呼んでいたわ。私のことを」
「あっ……それは……」
「そう呼んでくれて構わないのよ? これからもずっと」
「いや、あの……あれは切羽詰まってて、余裕が無かったから……」
そういえば、何度もそう呼んでいた気がする。今になって恥ずかしさがやって来て、顔が熱くなる。
女の子同士だから、だなんて軽々しく夜娃華の名前を呼ぶ事は出来ない。だって、夜娃華はこんなに綺麗で、私はまだ、彼女と並べる程の人間じゃないって、そう気後れしてしまうから。
「……まぁいいわ。そういう事は帰ってからゆっくりと話しましょうか」
「出来れば忘れてくれればと……」
「それは無理ね」
「ですよね……」
何度も夜娃華は私に名前を呼んで欲しがる。その度、はぐらかしてきた。今度も上手く話を逸らさないと……。
そしてふと気づく。いつの間にか“迷い岩”の姿は無くなり、人影達も消えていた。夜娃華の言う通り、私のことは諦めたみたいだ。
「帰りましょうか、夕花」
「そうだね、坂口さん」
夜娃華から伝わる熱が全身を包み、私達は光に包まれていく。段々と景色が遠退いていき、視界が暗転した。
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